授業の後半は、三島の『小説家の休暇』の中の“太宰嫌い”にも触れた。
三島の太宰嫌いは有名で至る所でネタにされてますが、最も顕著なのがこれ。
抜粋します。
私が太宰治の文学に対して抱いてゐる嫌悪は、一種猛烈なものだ。
のっけからこれだ。ww
第一私はこの人の顔がきらひだ。
第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。
女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
論理的に組み立てる振りをして
“嫌い”な根拠の一番目が、「私はこの人の顔がきらひだ!」。
判断基準の最初に、顔ww
論評でよく取り上げられる文章だけど
三島はどこまで真面目に書いてたんだろ。
インパクトは絶大だけど
漫才のつかみのような感じ。
一発カマしてやりました。
してやったりのサービス精神が満載のような気がする。
(略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などに本当の病人の資格がない。
いかん。
コーヒー飲みながら書いてたら吹いたww
「冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だ!」
座布団1枚。
「治りたがらない病人などに本当の病人の資格がない!」
座布団もう1枚。
私には文学でも実生活でも、価値の次元がちがふやうに思はれぬ。文学でも、強い文体は弱い文体よりも美しい。一体動物の世界で、弱いライオンのはうが強いライオンよりも美しく見えるなどといふことがあるだろうか。
流れでこんな風にもってきてます。
チカラ技の妙で、なんとなく納得させられそうですが。
文学の良さは強弱だけではないでしょう。
強弱、清濁、巧拙とか…の尺度より
むしろリズムやスピードで
いかに達意簡明であるかが重要なのではと。
(略)
太宰の文学に接するたびに、その不具者のやうな弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである。
(略)
被害妄想といふものは、敵の強大さに対する想像力を、強めるどころか、却って弱めるのだ。想像力を鼓舞するには直視せねばならない。彼の被害妄想は、目前の岩を化物に見せた。だからそいつに頭をぶつければ消えて失くなるものと思つて頭をぶつけ、却って自分の頭を砕いてしまつた。
ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。ゼルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった。どうして日本のある種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであらうか。
・この男の狡猾さ
・被害妄想
・却って自分の頭を砕いてしまつた
こんなのをもって三島は太宰の作品を唾棄すべきものと捉えていたとかいう意見も多いのは確か。
そうかな?
近親憎悪という意見も。
《美しくもダラシナイ、自堕落で弱い太宰》に憧れることと
《ストイックで美しい強い自分》を作り上げようとしたことは
三島の中では同義語だったような。
過剰なまでの精神力で太宰に対抗せざるを得なかったのは
裏を返せば、自分の弱さを一番理解していたのは
他ならぬ三島自身だったのではないかと思ったりもします。
太宰を囲む酒席に呼ばれないのに乗り込んだ三島のエピソード。
太宰本人に面と向かって
「僕は太宰さんの文学が嫌いなんです」
意表を突かれた突かれた太宰は迷惑そうに
「嫌いなら来なけりゃいいじゃねえか」
と顔を背けて吐き捨てたのは有名。
太宰の苦虫を噛み潰したような顔が思い浮かんで笑えます。
教授は、これについても多くは語らずで。
印象に残ったのは『小説家の休暇』という題についての解説。
三島にとっての小説家とは、小説を書くことこそがその使命で
随筆などは本来の仕事とは遠くかけ離れたもの。
そんなもの小説家にとっては、“休暇”に等しい座興。
三島の矜持だそうです。
お疲れさま。
仕事終了。
帰ります。
連休中もお仕事の人、お仕事頑張って下さい。
お休みの人、よい連休を!