高橋大輔のフィギュア人生とは? 取材ノートに刻まれた10年間の言葉。 | 大ちゃんを全力で応援

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野口美恵さんのコラムが挙がっています。

Number Web
http://number.bunshun.jp/articles/-/821912?page=4

高橋大輔のフィギュア人生とは?
取材ノートに刻まれた10年間の言葉。


野口美惠 = 文
text by Yoshie Noguchi
photograph by Asami Enomoto/JMP




 10月14日、28歳での現役引退を宣言した高橋大輔。3度の五輪に出場してきた彼の歴史は、日本男子フィギュアの歴史に他ならない。その軌跡を10年間の取材ノートと共に、もう一度追い掛けてみたい。

 高橋を取材したノートは'05年春から始まる。日本スケート連盟関係者からヒアリングしたメモには、「才能があるが、本番に弱い『ガラスのハート』」と記されている。'05年3月の世界選手権ではミスが相次ぎ、15位。'06年トリノ五輪の出場枠を「1」しか獲得出来なかったことも理由のひとつだろう。

 高橋の最大の幸運は、コーチの長光歌子に出会えたことだ。「何があっても私は最後まで大輔を見守る」と覚悟を決めた彼女は母親代わりとなり、'05年夏からは2人でアメリカへ。熱血漢のロシア人、ニコライ・モロゾフの指導のもと、何にも自信が持てなかった19歳の青年は、情熱的なステップを手に入れた。

「僕は満足していない!」

 迎えた'05-'06シーズン、高橋はグランプリファイナルで3位と大きな成長を見せた。歓喜する高橋に、モロゾフは「満足しているのか?」と尋ね、「もちろん」と答える高橋を、「世界トップを目指せるのに、こんな順位で満足するな」と叱咤した。モロゾフに言わせると、これは「脳の手術」。自己を低く評価する高橋を、鼓舞したのだ。

 しかし高橋は'06年トリノ五輪を前に「8位入賞が目標」と宣言。優勝やメダル獲得など、自分に重圧をかける言葉は口に出来なかった。8位と目標は達成したものの、荒川静香が金メダルを獲得し、選手村でそのメダルを首から掛けてもらって自分の甘さを痛感した。

「僕は満足していない! ただ緊張して興奮していたけれど、荒川さんは落ち着いて自然体で、心から五輪を楽しんでいた。次のバンクーバーでは、僕もあんな風に五輪を過ごして、そしてメダルを獲りたい」

 「観客がいたほうが頑張れました」

次なる目標は'07年に東京で開催される世界選手権だった。

「期待が大きすぎてプレッシャーを感じてしまった」というショートは、ミスがあり3位発進。このままではトリノ五輪の二の舞になると感じた高橋は、自分と一晩向き合った。

「失敗しないぞ、と思っちゃダメだ。行くぞ、と思わなきゃ」

 攻めのスイッチを入れると、フリーではトリプルアクセル2本を成功。日本人男子初の銀メダルを獲得した。

「緊張をうまく利用することをやっと覚えてきている。観客がいたほうが頑張れました」

 大観衆の前で思わず泣き崩れながら、成長を感じていた。

 翌シーズンは、目標に掲げた「4回転2本」を全日本選手権と四大陸選手権で成功させたが、世界選手権は惜しくも4位。その直後、モロゾフがライバルの織田信成も指導することを知り、袂を分かった。

「悪いことは、次に進むために必要なもの」

 ところが、孤独でガムシャラな練習の日々は、身体に負担を与えていた。'08年秋、練習中に右膝のじん帯を損傷。再建手術を受け、1年の休養を余儀なくされた。右脚は他人のような感覚になり、光が見えないリハビリ生活のなか、夜中に家出もした。しかしこの夜を境に、考え方は変わった。

「手術を受けたのは、ちゃんとリハビリをすれば五輪に間に合うと思ったから。ここで腐ったらダメ。悪いことはたいてい、次に進むために必要なものの場合が多い。きっと怪我は必然なんだ」

 そう捉え直すと、肉体改造に着手。関節の可動域を広げ、脚の歪みも直すことで、効率よくスケートが出来る肉体へと変化させたのだ。脂汗をかくようなリハビリに毎日耐えた。

 そして'09年8月のアイスショーで復帰。その言葉は、滑る喜びに満ち溢れていた。

「リハビリをしてから、自分自身の幅を感じられるようになりました。怪我の前はコーチと離れて精神的に苦しかったけれど、今は怪我をしたことがプラスになったと言いきれます」


「過去の自分に負けてはダメ」

 無我夢中で迎えた'10年のバンクーバー五輪は、4回転ジャンプで転倒した以外は最高の演技で日本男子初となる銅メダルを手にした。優勝した選手が4回転を回避していたことから、記者会見で「ダイスケも回避すれば優勝できたのでは?」と聞かれる場面があった。

「4回転ジャンプは、怪我をする前は出来ました。だから過去の自分に負けてはダメ。アスリートとして理想を追求した結果なので、挑戦した事も、転倒した事も後悔していません。“日本男子初”の五輪メダルを獲れたことを誇りにしたい」

 続いて、3月の世界選手権では日本男子初となる優勝を飾った。

「スポーツって、目標を達成できなくても、試合の時の究極の緊張感や集中を体験するプロセスが次の人生に生きると思う。僕も、何事にも怖がらずに前に進めるようになりました。こうやって真剣に取り組めるモノに出会えた事が幸せです」

 この時24歳。日ごとに大人びていく高橋が、そこにいた。

[そんなに完璧主義にならなくていい」

 スケーター人生の一区切りとなるはずだった'11年3月の東京開催となる世界選手権は、東日本大震災の影響で中止。4月末にモスクワで代替開催となると、履き古したスケート靴が演技中に壊れ、5位に。試合後、高橋は「ソチ五輪までの現役続行」を宣言する。

 ソチまであと3年。まずはフランスのアイスダンスチームのもとで滑りを基礎から磨き、さらに本田武史コーチのもと4回転ジャンプのフォーム改造にも着手した。何より変わったのは、練習に対する気持ちだった。

「これまでは毎年成績を出そうとしていた。でもそんなに完璧主義にならなくていい。結果的に強くなることが重要だと分かった。以前なら、調子が悪い日は『練習する意味なんてゼロ』と思ってやる気が出なかったけれど、今は、『調子が30%の日は、30%の成果で良い』と考えている。淡々と日々を過ごしたら、もっと充実した練習が出来るようになりました」

 ポジティブなアプローチが功を奏し、'12年3月の世界選手権で4回転を成功させての銀メダルを獲ると、闘志溢れる表情でこう話した。

「自分はまだまだ成長できるんだ、というのが分かった。最近の若い子達はみんなショートで4回転を跳ぶし、僕も“自分との戦い”なんて言っていられない。ライバルは全員です」


「残り2年で自分がどれだけ変化できるか」

 翌'12-'13シーズンは再びニコライ・モロゾフとタッグを組み、新しい刺激を求めた。

「ニコライと離れた4年で、僕は自分というものを確立できた。だからこそ、彼ともう一度組める。今の僕は、五輪で金を獲ることが目標じゃない。残り2年で自分がどれだけ変化できるかが、僕にとっての『やりきる』ということ。『そこそこ良い感じ』で終わらせたくない」

 '12年12月、グランプリファイナル7度目の参加で、羽生結弦やパトリック・チャンを抑えて初優勝を飾る。一方、3カ月後の世界選手権はライバルの存在が気になり、総合6位に沈んだ。

「怪我をして、五輪のメダルを獲って、現役続行を迷って決めて、今の自分がある。人生に無駄なことはない」

 そしていよいよ、3度目の五輪、ソチを目指した'13-'14シーズンが始まった。このシーズンは、再発した右膝の痛みを隠し、誤魔化しながらの戦いとなった。11月のNHK杯では、痛みは誰にも打ち明けないまま、集中力で4回転ジャンプを成功させて優勝。しかし12月のグランプリファイナルは欠場、全日本選手権はまさかの5位。五輪代表に選ばれはしたが、気持ちは複雑だった。

「自分にとっては最高のソチでした」

 そして怪我が回復しないままロシアへ向かう。公式練習では4回転ジャンプは回転不足ばかりで、誰の目にもコンディションは悪かった。

 それでも高橋は攻めた。ショート、フリーともに4回転に挑戦し、なんとか転倒はこらえる。望んできた内容ではなかったが、演技を終えた瞬間、すっきりとした笑顔を見せた。感情をこめた滑りはまさに集大成。総合6位だった。

「これが僕の実力です。4回転は、自分としては外せない部分だったので最後まで希望を捨てずに行きました。演技が終わったときは、もう受け入れるしかなかったです。最後まで諦めずにやれたので、笑顔になったのかなと思います。楽しかったり辛かったり色々な思いがあったソチでしたが、自分にとっては最高のソチでした」

 その後、高橋は3月の世界選手権を欠場。10月14日に引退を宣言し、ファンにむけてこうコメントした。

「ジェットコースターのような僕の競技人生にお付き合い頂き、いつでも温かく見守ってくださり、挑戦し続ける強さを与えてくれて、本当に感謝しています」

 人間が成長する苦しさと喜びを、自らの人生で体現した10年だった。