さて、前回は優性保護法の土台となった優生学や、日本以外の国での優生学の影響がどうであったか
などを書かせてもらいました。
まぁ、多くの先進国が優生学的思想を取り入れて積極的に断種をおこなっていたことがわかったと思います。
それでは、今回は日本編です。
第二次世界大戦が開幕して間もなくの1940年、国民優性法という法律が成立します。時は戦時下、「産めよ増やせよ」という国の号令の下、法律の内容としては、不良子孫の抑制と健康人の人工中絶禁止を定めたものでした。しかしながら、この法律では積極的に障害者や遺伝性疾患者の去勢を行うというよりは、障害者や遺伝性疾患者に限っては人工中絶を認めるよといったものでした。
戦争が終結し、3年後の1948年、国民優性法は優生保護法に改正されます。今度は戦時下と真逆で、人口爆発で増えた人口を抑制する方向に政策が動いていました。改正された優生保護法は、健康人であっても一定の条件下で妊娠人工中絶を認めるということと、不良な子孫の出生を防止するという2本柱で構成されていました。
この法改正で初めて「不良な子孫の出生を防止する」という言葉が法律に明記され、様々な遺伝性疾患や障害者が断種の対象となり、本人の同意を必要としない強制手術も認められるようになりました。
それから1995年に母体保護法に改正されるまで37年もの間、障害者に対する中絶・避妊の手術が繰り返し行われました。
ただ現在も、中絶に至っては優生学的なものが100%なくなったかといえばそうではなく、羊水穿刺による染色体検査では、かなり早い段階で胎児の遺伝性疾患の有無が判明するので、中絶の選択をされる方もいます。
さて、日本の優性保護法ですが、他国ほど優生学を根拠としてはいないように感じられますが、それでも、その人に許可も得ず、中絶や避妊の手術を行うということは許されることではないですよね。
自然界には、環境に適応できない弱い遺伝子は自然淘汰されてしまうシステムがあります。
人間だけが行う医療や福祉が、その自然界のシステムにあらがう行為であることは私も十分に承知していますが、人が人の優劣を判断して、人権を踏みにじる行為に至ることは容認すべきではないと思います。
自然界がその生物の生命力を試す行為と、人が手前勝手な尺度で他人に優劣をつけて命を選別する行為は根本的に違います。
自分に責任のないことで優劣を判断され、自分の子孫を残す自由を奪われる行為は、その人にどれほどの屈辱と絶望を与えるのでしょうか。
それを国が法律を盾に行うなど言語道断です。
皆さんはどう考えますか?
前にも言いましたが、私は温かく、優しい社会が良いです。
それでは次回は違うテーマで