<2014-07-27 日 13:56> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
7/27 14:39
昨日は16前に母親のいる病院から電話があって、兵庫県のおじさんから荷物が届いているので取りに来るように連絡を受けました。同じ方向で時間的にも間に合いそうだったので、先に曽々木海岸の千体地蔵を見に行くことにし、バイクで出発しました。
7/27 14:39
話には聞いていたのですが、曽々木海岸の山を登ったのは初めてのことでした。神秘的というかそういう雰囲気は前から感じていましたが、霊山と書いてあったのでなるほどと思いました。
7/27 14:40
2,3ヶ月前になるかと思いますが、近いうちに千体地蔵には行きたいと決めていました。途中、柳田村でも写真を撮影しました。町野に向かって坂の左側に店があって、そこで母親の立ち話に付き合わされイライラしていたことなど幼い記憶にあるのですが、湯治場のような温泉に行った時のことです。
7/27 14:40
千体地蔵の近くには岩倉寺という寺があると聞いていたのですが、千体地蔵の戻りに寄ってみたところ、ずいぶんと古い建物で驚きました。高野山真言宗とも札に書いてありました。
7/27 14:40
夢の中の夢といえば、「胡蝶の夢」という言葉を思い出しました。
7/27 15:00
平成3年の11月から平成4年の2月頃に掛けて、けっこうな回数、和歌山県のかつらぎ農協にミカンを積みに行っていたのですが、大阪方面からかつらぎ町に行く手前に、高野山の案内板とかが道路に多く出ていて、その時も幼い頃の記憶を思い出していました。
7/27 15:00
高野山で撮った写真のようなものは残っていませんが、母親の高野山に行くという意気込みのようなものは強く印象に残っています。母親の意識がしっかりしているうちに、高野山に行ったのか、それはいつ頃だったのかと聞いておけばよかったと思います。
7/27 15:00
撮影した写真は今回もPicasaウェブアルバムに新規アルバムとしてアップロードしました。土曜日でしたが、他の人に会うこともなく、事実上の貸切状態でした。かなり暑くて予想以上に道も険しく、気温がもっと高く体調が悪ければ、熱中症で危険なことになったかもしれないと思いました。
7/27 15:00
ずいぶん前のことなので、時期もはっきり思い出せないのですが、母親は輪島の「ねぶた温泉」で中居の仕事をする前、曽々木で中居の仕事をしていると話していたことがあったと思います。ちょうど孫の顔を見ていた時期、孫に会うのを楽しみにしていた時期とも重なりそうに思います。
7/27 15:24
私の母親は、私が小学校の六年生のときであったと思いますが、心臓発作を起こして死にかけたことがありました。それは織物工場の一泊旅行で、石川県加賀市の片山津温泉に行った時のことでした。
7/27 15:24
片山津温泉に行く前の日中には、小松市で地獄の洞窟のようなところを見物しました。怖い人形が洞窟の地下のようなところに展示されていましたが、地上に戻ると、お釈迦様が寝そべっている大きな像があったのも印象にのこっています。
7/27 15:24
「はにべ岩窟院」というような名前であったと思います。数年前に一度、思い出してネットで検索をした憶えがあるのですが、その時は情報や写真が出ていたと思います。石川県に住んでいても聞いたことがないですが、今でも残っているのではと思います。
7/27 15:24
異様なオブジェが陳列されていたとのことですが、それは初めて知りました。行ったのは昭和51年と思われる一度だけでしたが、その時とは変貌もあるようです。小松の水子の寺院の住職が逮捕という記憶でしたが、ハニベ岩窟院とははっきりと記憶していませんでした。
7/27 15:51
そういえば国道8号線沿いで加賀市と小松市の境の辺りにも、かなり大きな施設で「珍宝館」のようなものがあったことを思い出しました。わいせつ物を陳列するようなテーマパークでしたが、長距離トラックの仕事をしていたので、県外でも似たような施設は目にしていました。
7/27 15:51
他にどこを回ったのかも記憶にないですが、片山津温泉のホテルで、宴会の後に母親が倒れたと聞かされました。ちょうどエレベーターの中でその話を聞いたような場面が記憶に残っています。
7/27 15:51
私が子供の頃、加賀温泉などのCMが多かったのですが、大きなビルの旅館というのは、たいていホテルという言葉が名前に含まれていたように思います。ホテルという言葉自体、最近は見かけなくなっているような気もしますが、旅館というと民宿に近いイメージもあります。
7/27 15:51
母親は加賀市大聖寺の病院に運ばれました。当時の宇出津の持木病院とよく似た感じの病院でした。個人名の病院だったと思います。今、ネットで大聖寺周辺の病院を調べたのですが、それらしい記憶にある病院名はなかったです。
7/27 16:13
その大聖寺の病院には昭和58年の秋に、被告訴人安田敏と一緒に行ったことがあり、その頃やっていた消火器売りの先輩の付き合いで行った時だったと思います。建物は昭和51年当時と変わらず、この病院だったのかと思いだしました。
7/27 16:13
母親が特に入院していたという記憶もないのですが、家に帰ってずっと布団で寝ていて、度々心臓発作を起こしては苦しんでいました。助からないのでは、長くはないのではと思っていたことを憶えています。
7/27 16:13
川尻の寺には続けて行くようなことはなかったと思いますが、母親の信心深さが確信的に強固になる出来事だったと思います。それ以降、中学生になると母親と一緒にどこかへ行ったり、行動することもほとんどなかったと思います。
7/27 16:38
川尻というのは当時の珠洲郡内浦町で、たぶん蛸島線の鉄道では、松波駅の一つ手前だったと思われます。小木経由で松波に行く時には通りますが、駅があった場所も今はわからないというか、考えたこともなかったです。
7/27 16:38
宇出津では見たこともないような古くて簡素な寺で、荒寺という印象が強く残っています。若くて真面目そうな住職だったという印象も残っていますが、その寺の話を聞くことも後にはなかったように思います。
7/27 16:38
寺というよりは、神社という感じの建物でした。たしか寺だと聞いていて、住職もお坊さんの姿をしていたので寺だったのだとは思いますが、田舎の村によくあるような小さい神社という印象が残っています。小高い丘の上という風景とともに。
7/27 16:38
昨日まとめて掲載し、紹介したモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートに説明を移りますが、あらためてひときわ目をひいた言葉が、「想像力」でした。彼は好んでこの言葉をよく使っていると思います。
7/27 16:38
たぶん初めてのキーワードでの検索で、結果を眺めながら動画として録画していましたが、キーボードでの画面のスクロールができず、戸惑った場面もありました。アドオンで特別なキーバインドをやっているので、それが裏目に出たのかもしれません。
7/27 17:27
結果を眺めながらでしたが、特に目を引くツイートが2件あったので、それをブログの記事としてAPIで投稿する状況も、同じように録画しました。次の二つの記事になります。
7/27 17:27
司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 知識も想像力も乏しい人が知ったかぶりをするのは、悲劇を通り越して滑稽です らある。でもそういう人が社会的影響力を持つと、笑って済ますことができない 悲劇/矢部善朗弁護士 http://t.co/UhNVFjpo5a
7/27 17:27
2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 想像力が欠落した人が多いと、現実的冤罪被害者と将来的犯罪被害者を天秤にか けた場合、/矢部善朗弁護士 http://t.co/HdTEzZV4oO
7/27 17:28
2つともAPIを使わずにHootSuiteから投稿しましたが、1つめはタイトルが長すぎて8文字超過になったので、先頭の一部分を削りました。
7/27 17:28
保存時に日付や日時を自動でファイル名に含めるのは割とあることだと思いますが、やはり録音の開始時刻ではなく、終了した後の保存の時間と考えられます。1月の11日で、当日はどんよりした空模様だったという記憶もあるので、薄暗いかすっかり暗くなった時間だったとも思えます。
7/27 18:01
このデータというかファイルを発見するまでは、1月の10日頃ということを思い出してはいたものの、2003年の平成15年ではなく、2004年の平成16年のことではと考えていました。
7/27 18:01
野々市の100満ボルトでボイスレコーダーを買ったあとに、試しの録画をしたことは平成14年12月の20日頃のこととして記憶していました。これは派遣の仕事を初めてまだ日が浅い頃だと思っていたので、割と自信のある記憶でした。
7/27 18:01
その時のファイルだけなぜか時刻が含まれておらず。12月22日としかわからないのですが、そのWMAファイルをダウンロードして、視聴してみました。4分3秒という情報はプロパティからわかりましたが、Exif情報のような録音日時の情報は保持していないようです。
7/27 18:01
視聴してわかったことですが、初めに訪問した玄関先での会話の録音になっていました。穏やかで比較的歓迎ムードだったことを再確認しましたが、この時のものは思ったほど録音状態が良くなく、相手の声が小さくなっています。室内や車内とは違うことが影響しているのかもしれません。
7/27 18:01
被告訴人KYNが正月休みで帰省していた時、ということがわかりましたが、連絡をしたものの会ったという記憶もありません。その連絡の時点で私は、直接被告訴人KYNにあって、踏み込んだ話をするつもりでいたのだと思いますし、それが実現したのが1月11日ということになりそうです。
7/27 18:31
端末で文字ベースのカレンダーを表示するcalコマンドで確認したところ、% cal 1 2003というコマンドの実行結果では、2003年1月11日は土曜日になっていました。
7/27 18:31
当時の私の派遣の仕事は4日出て2日休みのローテーションだったので休みに曜日は無関係だったのですが、私が被告訴人KYNのところで仕事をしていた頃は、土曜日は常に仕事で、休みは日曜日だけだったと思います。正月明けでもあったので休みにしていたのかもしれません。
7/27 18:31
データはインターネット上にあるいわゆるクラウドサービスですが、そのままでは再生ができない様子で、ダウンロードする必要があるようです。再生して視聴すれば新たに思い出すこともあるかとは思いますが、他に済ませておきたいこともあるので、当面は保留ということにしたいと思います。
7/27 18:31
先に一つだけ言っておくと、その時の会見で最も意外に思ったのは、被告訴人KYNの口から姫のNKさんのことが出たことです。以前から付き合いがあるような話しぶりでもあったと思うのですが、その辺りはしっかり確認をしておきたいと思います。別れ際に近い時間に出た話とも記憶にあります。
7/27 18:32
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