6月16日に投稿したなう | 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

 殺人未遂事件として木梨松嗣弁護士、長谷川紘之弁護士を金沢地方検察庁に刑事告訴手続き中 (さらば弁護士鉄道\泥棒神社の物語)

 市場急配センター(石川県金沢市)の組織犯罪と加担、隠蔽をした弁護士らの物語(事実)。



珠洲市総合病院には翌年(2010年)の1月の20日ころまでいたように思います。受け入れ先の養護施設が決まって、旧柳田村の病院に転院しました。珠洲市の病院にいた時の方が、用意するものが多くて頻繁に病院に行っていました。
6/16 10:16

珠洲市の中心部は飯田町で、地元では単に飯田と呼ぶことが多いのですが、珠洲市総合病院のあるばしょも住所は野々江で、昔、鉄道の珠洲駅があったのもそうだと思います。
6/16 10:39

昨日、飯田町が正確なのかと調べていたところ、珠洲警察署も飯田ではなく住所が上戸になっていて、ちょっと驚きました。昔、そういう名前の駅があったということで知っている地名ではありますが、あまり意識したこともなくひと括りに飯田だと思っていました。
6/16 10:40

母親が脳出血で倒れる前、5月から3ヶ月間、私は飯田の方で職業訓練に通っていました。この時もバスで通っていましたが片道で千円近い料金でした。停留所も多いので時間もけっこうかかっていました。
6/16 10:40

宇出津新港にある職業安定所から職業訓練に行くことになったのですが、ワープロ検定と表計算検定のいずれも2級をとることが出来ました。合格証書のようなものをとりに、久しぶりに飯田に行き、その一週間ほど後に母親が倒れ、また頻繁にバスで珠洲に通うことになったのです。
6/16 11:06

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 珠洲市飯田の用事・大谷パーキング・真浦海岸・曽々木海岸_2014年06月14日13時55分46秒.jpg https://t.co/1rg44EzBVr
6/16 11:07

上が先日撮影した珠洲市総合病院の写真です。「すずなり」という道の駅から歩いて行ったので、空き地のような場所からの撮影になっていますが、すぐ上は病院の駐車場になっているようです。
6/16 11:07

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 2014-06-14_13.54.31.jpg https://t.co/enQsekKkZ2
6/16 11:40

2009年8月31日の月曜日の朝に母親は病院に運ばれ、そのまま入院することになったのですが、9月の11日ころには京都の親戚の人が見舞いと今後のことの話し合いを兼ねて車で病院に来ました。その時に車を駐車していたのもその病院前の駐車場でした。
6/16 12:01

母親は5人兄弟の長女で上から2番目でしたが、その時は京都市内に住む一番上の長男と、同じく京都市内の次女の夫婦、兵庫県に住む次男、そして末の妹の夫婦が愛知県から来ていました。
6/16 12:01

泊まりがけで来ていたので、その夜は能登町松波のラブロ恋路という旅館のようなホテルで私も一緒に泊まりました。末の妹だけは同窓会の出席を兼ねて来ていたらしく、九十九湾の百楽荘に泊まっていました。
6/16 12:01

旅館のようなところに宿泊したのは平成10年に被告訴人KYNの配管の仕事で、福井県武生市の民宿に宿泊して以来のことでしたが、それは現場で急に予定が変わって、宿探しをした上での宿泊でした。
6/16 12:02

さらに遡ると平成4年1月11日の市場急配センターのでの慰安会で、片山津温泉の「せきや」に宿泊して以来のことでした。旅行に行ったことも一度もないですし、飛行機にはまだ一度も乗ったことがなく、海外に出たこともありません。
6/16 12:02

本書において武生市の仕事のことは長野オリンピックのことなど、わりと詳しく書いたように思いますが、「五分といつつの兄弟分」というのは、あるいは書いていないかもしれません。M君に関しては他にも大事なことを書いていないので、別のところで書く予定です。
6/16 12:26

せきや、での慰安会のことも少しは書いたように思いますが、大事な時期でもあるのでまた書くことがあると思います。黒部パーキングエリアからの電話のことも書いているか、検索して確認しておきたいと思います。
6/16 12:26

% grep '黒部' ~/kk_hirono/index.org 、というコマンドで調べてみたところ該当は1件でアルミサッシのことが書いてありましたが、黒部パーキングエリアはなく入善パーキングエリアであったと思いだしました。
6/16 12:26

% grep '入善' ~/kk_hirono/index.org 、では該当がないようでした。少しは書いたような気もするのですが、まったくヒットはないようです。
6/16 12:26

「1月12日」にキーワードを変えると、次のような部分がヒットしましたが、まだ十分な説明は行っていないようです。
6/16 13:06

次に電話に出たのは年が変わった平成4年1月12日の日曜日の夜のことでした。これも日付をよく覚えているのは、片山津温泉「せきや」であった泊まりがけの新年会の翌日のことであったからです。
6/16 13:06

その時、長男のおじさんは元気そうに見えていましたが、難病を患ったと聞いたのは亡くなる一年ほど前ではなかったかと思います。自分で食事をとることもできなくなり、管を入れて体内に送り込んでいるとも聞いていました。
6/16 13:06

私は長い間、平成4年の傷害・準強姦被告事件の控訴審の弁護士費用をその長男のおじさんが出してくれたと思い込んでいたように思います。聞き違えとも考えにくいので、母親の口からそのように説明を受けたとは思うのですが、ずいぶんと前のことになってしまいました。
6/16 13:29

長男のおじさんは、兄弟の中でも余り田舎の宇出津には遊びにこないような人で子供の頃も会う機会のというのも少なかったと思います。それでも拘置所にいる時、金沢刑務所に一度面会に来てくれたことがあり、その時は意外にも思ったものです。
6/16 13:29

小学生の低学年の頃までは母親に連れられて京都の親戚の家にも遊びに行った記憶があるのですが、京都タワーのレストランで食事をしたのが京都の親戚のところに行った最後の記憶となっています。
6/16 13:29

辺田の浜の家にいた頃は、夏になると毎年、京都の妹夫婦が遊びに来ていましたが、宇出津に引っ越してからは余り来なくなり、家に泊まったという記憶も余りありません。
6/16 13:29

宇出津に引っ越してきたのは昭和50年4月のことでした。もともと母親の家族が住んでいた家らしいのですが、京都と尼崎、愛知県に他の兄弟は移り住み、宇出津に残ったのは私の母親だけでした。戦前に家族で京都から来たらしいですが、母親は京都生まれです。昭和4年1月生まれです。
6/16 13:29

祖父母に関しては私は見た記憶もなく、たぶん私が生まれる前になくなったのだと思いますが、不思議と余り話を聞いたこともなく、いつ頃になくなったのかもよくわかっていません。私が生まれて物心ついた頃には、宇出津に残っているのは母親だけでした。
6/16 13:53

京都に住む2軒の親戚は、どちらも西陣織の商売をしていました。宇出津にある家はその西陣織の織物工場でした。7,8人程度だったと思いますが、手織りの織物をやっていました。昭和57年の時点ではまだやっていたことを記憶にしていますが、その2,3年後には工場をやめていたと思います。
6/16 13:53

私の母親は機織りをすることはなかったですが、糸を紡ぐようなことをやったり、工場で仕事もしていました。工場をやめた頃は、私は金沢市で生活をしていてあまり宇出津に帰ってもいなかったので、いつのまにか工場がなくなっていたという感じでした。
6/16 13:53

記憶もあいまいなので正確には思い出せないですが、思えばちょうど宇出津新港の埋め立て工事をやっている頃ではなかったかと思います。宇出津新港の埋立地も、私の記憶ではいつの間にか出来上がっていたという感じでした。
6/16 13:53

思えば昭和58年の夏も宇出津にいることが多かったですが、織物工場をやっていたかどうかも思い出せません。その頃はよく九十九湾の百楽荘に夜、風呂だけ入りに行っていました。その夏の8月の終わりか9月の初めから金沢の観音堂の被告訴人安田敏のアパートに転がり込むようになったのです。
6/16 13:53

その三崎の家には泊まったという記憶はなく、行ったのはすべて真夏の時期で、行くと必ず近くの砂浜の海で泳いでいました。珠洲の三崎と聞いていたので、ずっと三崎だと単純に思っていたのですが、近年知ったところによると三崎は広く、地名も多いようです。
6/16 14:22

近所の辺田の浜の浜辺に比べると、はるかに広く海もきれいだったと記憶にあります。それとその家では茹でたトウモロコシを食べさせてくれたのですが、当時としては余り見ることもない珍しい食べ物に思われていました。
6/16 14:22

その妹夫婦には、ほかにも能登の観光地をあちこち車で連れて行ってもらったという記憶があります。曽々木海岸にも行っていると思いますが、当時は車に載って連れて行ってもらっているだけで、どこがどこなのかもよくわかってはいませんでした。
6/16 14:22

その妹夫婦も何回か、拘置所にいる時金沢刑務所に面会に来てくれたと思います。疎遠にもなっていたと思いますが、三崎の海に行ったことなど、子供の頃のことを思い出すこともありました。
6/16 14:22

あるいはそこで先走った勘違いも起きたのかもしれないですが、母親の妹の旦那さんの紹介の弁護士が木梨松嗣弁護士で、珠洲の三崎に縁があると思ったのです。その紹介というのを母親の口から聞いたのは間違いないことですが、三崎という部分が思い込みがあったのかもしれないと多少引っかかるのです。
6/16 14:22

もっとも昭和40年代の後半には京都に生活をしていて石川県内で生活をしたという話も聞いたことはなかったので、金沢の弁護士に知り合いがいるとなれば、同郷である珠洲市三崎のよしみかと考えるのも、自然な解釈かと思います。母の口から三崎という言葉が出たような気もするのですが、はっきりとは。
6/16 14:57

なお、三崎に関しては私の母親が一緒に行ったことはないと思います。私の母親は車酔いがひどく乗り物が苦手だったのですが、平成に入ったぐらいになると、だいぶん慣れてはいたようです。私自身も小さい頃は、バス遠足にも車酔いの不安を感じ、酔い止めの薬を飲んでいたと記憶しています。
6/16 14:57

母親は免許を持っておらず、父親は3歳ぐらいの小さい頃に亡くなっているので、車に乗る機会というのも少ないもので、バス遠足以外は京都の親戚が来たた時ぐらいだったと思います。不思議と親戚の車で酔ったという記憶はないですが、中学生の頃も車酔いは不安でした。
6/16 14:57