時刻は5月11日7時12分を過ぎたところです。昨夜は20時ころからずっとテレビを観ていました。久しぶりに2時間の刑事ドラマを観ましたが、そのドラマの内容に触発され、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に@付きのツイートをしました。
5/11 7:35
2014-05-11-001249_http://yblabo。com/ 500 Internal Server Error アクセスしようとしたページは表示.jpg http://t.co/RlqzCSN0fN
5/11 7:56
2014-05-11-001858_遠隔操作事件で最近警察のリーク報道が少ないのは、リークしたがる幹部連中が理解できないレベルの話で捜査が進ん.jpg http://t.co/KcnRaqpB9p
5/11 7:56
思惑通りにTwilogからコピペしたものをそのまま流用出来たのですが、思わぬ処理も含まれていました。Twilogではhttp://がついたデータとして取得されるようです。
5/11 8:18
さらに、httpのプロトコルをつけたURLは、APIで投稿した告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のタイムラインには表示されず、個別のツイートを開いてもhttp のプロトコルをは除去されていました。
5/11 8:40
ブラウザからTwitterAPIを使ってツイートのデータを取得したのですが、初めて見つけたサービスを使って取得したもので、スナップショットをTwitterと共有することも出来ました。次のURLがそれです。APIで見ると一件のツイートにはこれだけの情報が本来あります。
5/11 9:51
昨夜見たのは次の番組です。
5/11 10:13
このツイートと画像のURLは次のようにコピペしました。
5/11 10:40
ファイル名はaですが、次のようにコマンドを使って作成したファイルです。一時的に作成した作業ファイルのようなものです。
5/11 10:40
% tac s_hirono140511.csv |cut -d',' -f3 | sed 's/"//g'|grep jpg > a
5/11 10:40
ツイログ(Twilog)の元のデータは次のようになっているので、それを加工しています。tacは逆順、cutでコンマを区切りに3番目のデータを取得、余分は前後のダブルクオーテーションを除去、jpgをキーワードに絞りこみをしています。
5/11 11:04
ツイログはコンマで区切られた3つのデータにわかれていますが、例えば一番目の"465238691036676096"というデータはツイート固有のIDになっていて、次のようにURLとして扱うこともできます。
5/11 11:04
同じく2番目のデータは"140511 061522"という形式ですがこれは投稿日時だと思われます。つまりこの場合、2014年5月11日6時15分22秒になるはずです。3番めがツイートの内容ですが、一部にエスケープで違ったものに置き換えられる文字もあるようです。
5/11 11:27
特殊な記号の扱いというのは何かと問題になるもので、自分で作るプログラムでは留意も必要になりますが、全く同じ文字列ではいと検索が失敗する可能性があるということで、説明しました。問題になるのは半角の記号の一部です。プログラム言語によっても違いがあります。
5/11 11:27
「お家さん」という金曜日の夜に観たドラマについては、感想だけでなく本件事件に関する事実にも触れて書いておきたいと思います。
5/11 11:27
テレビをつけた時の時刻が21時01分だったのでほぼ最初から観ていましたが、食事の用意でテレビから離れることもありましたが、物語の筋を見失うようなことはなかったと思います。少しして録画も開始しましたが、録画はまだ再生していません。
5/11 11:27
なんの先入観もなく始まったドラマでしたが、観ながらインターネットで検索をして情報を得ることはありました。「鈴木商店」というのも知らなかったと思いますが、以前は日本で一番多い苗字でもあったかと思いますので、ありがちな名前とも思います。
5/11 11:27
このドラマで金子直吉という人物を初めてしりました。たぶん、何かの機会に名前を見ることはあったのではとも思いますが、取り立ててクローズアップするようなものには出会うことがなかったように思います。
5/11 12:01
私もその漫画の場面は見ていましたし、彼から話を聞く前に見ていたように思います。最近は名前も見かけなくなりましたが、本宮ひろし、という自分たちの世代にはお馴染みの漫画家で、子供の頃は少年ジャンプの連載が多い人気の漫画家でした。
5/11 12:21
私自身、成人になった頃には少年ジャンプや少年マガジンのような漫画は全く見なくなっていたのですが、コンビニにおいてあるような週刊誌のような漫画はよく目にしていました。例えばビックコミックスピリッツとか。
5/11 12:21
「本宮ひろ志 岩崎弥太郎」というキーワードでGoogleで検索をしてみました。「本宮ひろ志」という名前が正確だったということもこの検索で思い出しました。
5/11 12:21
全然記憶になかったのですが、上記のタイトルの漫画だったようです。「1990年から1992年まで、集英社「ビジネスジャンプ」に連載。」という記載もあったので、間違いはなさそうです。
5/11 12:22
平成2年のいつ頃から連載が始まったのか記載がないのが残念ですが、平成1年ではなく平成2年からというだけでも、とても参考になる情報です。岩崎弥太郎のことは最近でもちらほら思い出すことがありましたが、取り上げて言及することはなかったと思います。
5/11 12:53
はっきり時期の特定ができていないのも被告訴人大網健二の本陣不動産株式会社への入社時期ですが、仕事を初めてしばらくの間は、片町での接待で長時間運転手として車の中に待機をさせられているとか、愚痴のような話をしていました。
5/11 12:53
そのしばらくの間が、半年であったか長くて1年ほどであったか、そういうことも正確には思い出せなくなっていますが、俄然仕事に熱意をもって取り組むようになったのも、その漫画の岩崎弥太郎の話をした頃のことであったことは間違いないと思います。
5/11 12:53
彼の長女が生まれた時期についても思い出せないのですが、神戸から戻って金沢で生活を始めたあとであった可能性がはるかに高いと思います。
5/11 12:53
すでに触れたこともある被告訴人大網健二の結婚式ですが、そのとき長女は2歳以上にはなっていたはずです。式の中で長女の紹介もされていましたが、しっかり自分で立って歩き、周囲の状況も理解できるような年頃になっていた姿を記憶にしています。
5/11 12:53
いくら出したか覚えていないですが、少なくとも1万円以上の金額で、それが相場にも近いような話だったと思います。しばらくして記念品というのかお返しとして灰皿をもらったように記憶しています。大きめのサイズで事務所のテーブルに置くようなものであったと思います。
5/11 13:17
ヤクザ者として事務所を開くということは、独立というか独り立ちして組長になるということ、というような説明も聞いたように思いますが、それは被告訴人大網健二の話であったかもしれません。
5/11 13:18
東京でヤクザというか暴力団をしているということは被告訴人大網健二から聞いていましたが、組の名前や系列については、なるべく関わりになりたくないということもあり、質問もせず聞いていなかったと思います。記憶にもありません。
5/11 13:18
被告訴人浜口卓也からの直接の連絡だったと記憶していますが、それは珍しいものでもあったので、よけいに印象的に記憶に残りました。
5/11 13:18
そういえばということで今思い出したのですが、被告訴人浜口卓也が市場急配センターで仕事を始める前、私のアパートに電話を掛けてきたらしいのですが、取り次いだ妻が姫のNKさんと勘違いして説明したのか、私はNKさんの電話と思い込みながら連絡方法も思いつかず放置していました。
5/11 13:18
思えば被告訴人安田敏からの電話に対する同じく伝言で妻から、「内灘の砂浜に車がはまって動けないので助けに来てほしい。」というのを聞いたこともありました。深夜の連絡だったと思いますが、これも放置したことを記憶しています。その場にいなくてよかったとも思っていました。
5/11 13:52
NKさんと勘違いした連絡のことがあってから、会社で被告訴人浜口卓也本人と会うまでは、けっこう間があったように思います。半月から一月ぐらいはあったように思います。
5/11 13:53
市場急配センターの仕事をするかどうか迷いがあって相談のために連絡をしたような話をしていたと思います。なるほどと理解しながらも、なぜ妻が勘違いして行き違いになったのかも合点がいかないとは思っていました。
5/11 13:53
妻は両者に面識があるものの、被告訴人浜口卓也の方により直近の面識があったとも思いましたし、声もタイプも印象もずいぶん違うはずなので、おかしな間違いはしないと思ったのですが、釈然としないまま追求することはなかったと思います。
5/11 13:53
引っ越しの手伝いは春でも5月か6月に入っていた気もするのですが、私がまだ市場急配センターに移る前であったとは思うのですが、どうも記憶のはっきりしないこともあります。
5/11 16:27
Googleマップの画面をスクリーンショットにしましたが、リョーショクという物流倉庫の場所は変わっていないと考えられます。かなり大きな敷地で金沢港に前の道路に面していたので、簡単に移転もしないと感がられるからです。
5/11 16:50
トラックを返しに行った倉庫というか、配送センターと言ったほうがいいかもしれませんが、そちらはリョーショクの敷地の裏手のほうで、隣接していたかどうかも記憶にはないですが、上空からみて左手にあったように思います。
5/11 16:50
ざっとGoogleマップの地図をみたところ、次の地点の可能性が高いように思われます。広い道路に面した敷地であったようなこともおぼろげながら記憶に残っています。
5/11 16:50
私の記憶には奇妙な点があって、引っ越しを手伝いに行ったことはその時の場面も含めて記憶に残っているのですが、引越し先であるはずの大場町東の一軒家での作業の様子というのがまるで記憶に残っていないのです。
5/11 17:13
ただ、荷物を運び入れる前か、ほとんど物がないような状況での大場町の一軒家の家の中や、家の周りの状況に関しては、割と印象的に記憶に残っています。
5/11 17:13
トラックを返しに行ったのは、引っ越しの作業が終わってからのことであったと思うのですが、午後だったとは思うもののまだまだ明るい時間帯でした。改めて考えると手伝いに車で向かった先が無量寺のアパートだったので、作業が終わったあともそちらに戻っていたのかもしれません。
5/11 17:13
借りた2トンのトラックは宇出津のK村さんのものだと聞いていました。青色の古いトラックだったと思います。初めに見た頃の2トントラックよりはポンコツではなかったような気もするのですが、塗装も純正のままのような当時でもかなり古いタイプのトラックと色でした。
5/11 17:13
荷物を運ぶので箱はついていたか幌がけだったとは思いますが、まるで2トンのダンプでよくみかけるような感じのもので、トラックとしてはけっこう珍しかったと思います。普通の緑ナンバーの運送会社であれば、それなりの塗装もしてあるのがほとんどだったと思います。
5/11 17:13
調べてみたのですが「Kマートは日本にかつて存在したコンビニエンスストアとスーパーマーケットのひとつ。」とありました。金沢市近郊に限ったチェーン店かと思っていたのですが、そうではなかったようです。ただ、長距離の仕事でも他県で見たという記憶はほとんど残ってはいません。
5/11 17:35
一方、「ひまわりチェーン」を調べたところ、こちらは現在も営業しているチェーン店のようです。ざっと見たところ、金沢市近郊というより金沢市内のみの店舗にもみえました。将来変動があるかもしれないのでスクリーンショットを撮っておきます。
5/11 17:35
前から思い出せないことがあったのですが、ようやくだいたいのところを思い出すことができたようです。それは金沢市長土塀3丁目の交差点から金沢駅方向の小路に入ったところであったと思います。
5/11 18:02
自分の記憶によるとその一角は田舎町のちいさな商店街のようになっていて犀川の方向のほうから小路に入ってくると、左の角にひまわりチェーンの店があったように思います。
5/11 18:02
余り行くことのない配達先だったので余計に記憶にも残っていたのですが、ある日、配達中にそのひまわりチェーンの近くで、NKさんかYSさんに出会ったと思います。それだけでなくM田かS田、あるいはその二人が一緒に仕事をしていました。
5/11 18:02
S田とM田についても前に書いていると思いますが、肝心要のことはまだ書いていないと思います。前に書いたのはS田がアルトワークスのことで被告訴人大網健二とトラブルになり、S藤を連れて金沢港のイワシの現場に来たということで、平成1年12月ころのことです。
5/11 18:02
なにか昔の記憶が重なって、六枚の交差点の近くのことを思い出しただけなのかもしれませんが、被告訴人大網健二が住んでいたアパートからは金沢駅までも歩いてそう時間はかからない距離だったと思います。実際に歩いて行ったような気もします。
5/11 18:26
近くに古い紡績工場かその跡地があったようなことも記憶に残っていますが、めったに通るような場所でもなかったです。
5/11 18:26
ついでに書いておくと中橋の陸橋にはもうひとつ思い出があります。さきほどGoogleマップのストリートビューで見たところ、陸橋は跡形もなくなり、高架下になっていました。
5/11 18:26
中橋の陸橋の付近というのも滅多にというかほとんど行く機会もなかったので、町並みの記憶も薄いのですが、S田を追い回したと聞いた情景では金岩方面に向かって陸橋の右側にその場所があったことになるかと思います。
5/11 18:27
もうひとつの方は、記憶も新しく具体的にはっきりしているのですが、夕方の遅い時間すっかり暗くなってから被告訴人松平日出男社長が、その場にいた10人ほどを食事に連れて行くと言い出したことがありました。あるいは7,8人だったような気もしますが、メンバーの顔ぶれはさほどはっきりしません。
5/11 18:27
人数からして最低2台の車には分乗して向かったと思いますが、その時最初に向かったのが、中橋の陸橋の真下付近、金岩方面に向かって左側の場所にある焼き鳥屋のような店でした。赤ちょうちんが出ているような店でしたが、店内の席に空きがないとかいう話で松平日出男は戻ってきました。
5/11 18:52
そのあと行ったのは、金沢駅東口のできたばかりの飲食店街の中の店でしたが、行きずりで適当に選んだような店でした。いろいろと気になるところはあったのですが、考え過ぎかとも思い。わからないまま引っ掛かりをを引きずるような出来事というか、その場の雰囲気でもありました。
5/11 18:53
平成4年の1月か2月のことでしたが、前後の状況に照らしても時期を絞り込むことができずにいます。その場には、被告訴人東渡好信の姿もあったように思いますが、東渡好信の精神病者を装うような不可解な行動が始まったのも、そのすぐあとであったように思われます。
5/11 18:53
まず東渡好信は会社に出てこなくなりました。会社をやめるような話もしていたようですが、東渡を親身に気遣い、心配する話もしながら、東渡好信に関する話を聞かせてくれたのも輪島のHさんでした。
5/11 18:53
輪島のHさんは平成2年の秋頃、東渡好信とほぼ同時に金沢市場輸送に入ってきた運転手でした。東渡好信の紹介というかたちでの入社とも聞いていました。会社で姿をみるようになったのは、ほとんど同じ頃だったと思います。
5/11 18:53
すでに書いているかもしれませんが、東渡とは運転手仲間で同じく材木を運ぶトレーラーに乗務していたという話でした。チューとも呼ばれたWも同じ仲間だったと聞きましたが、Wの場合はトレーラーではなく10トン車乗務だとも聞きました。
5/11 19:58
輪島のHさんは輪島でも海士町の人と言っていましたが、漁師という雰囲気は全くない人で、スナックのような飲み屋を経営していたこともあると話していたように思います。
5/11 19:58
よりはっきりと記憶にあるのは、本人が売春で刑務所に入ったことがあり、加古川刑務所に服役していたと話していたことです。1年か1年半という短い刑期だったと思います。なぜそんな話をするのか多少不思議には思っていましたが、ごく自然にに話していました。話は一階の休憩室が多かったです。
5/11 19:58
輪島のHさんのことで印象的だったのは平成3年11月25日の夕方のことでしたが、これはまだ本書では書いていないように思います。
5/11 19:58
Hさんは、東渡好信に同情的で、東渡好信の妻を批判することもあり「鬼のような女」と言っていたこともありました。平成4年2月の後半か同年3月中のことであったと思います。
5/11 19:58
私はその東渡好信の妻という人に会ったことがありました。休日の午後だったと記憶していますが、会社裏駐車場の一番奥、入り口から入って右側の位置で、声を掛けられました。七尾市から探しに来たものと思われましたが、なぜほとんど人のいない休日なのかとは不思議に思いました。
5/11 19:58
私の記憶にある中で初めのその中央市場が休日という水曜日は、平成3年9月のことでした。% cal 3 1991というカレンダーのコマンドによると13日か20日ということになるかと思いますが、休憩室の工事が途中であったことから13日の可能性が高いと思います。
5/11 20:20
13日の水曜日となれば第二水曜日ということになりそうです。calコマンドの結果をスクリーンショットととして次に掲載しておきます。
5/11 20:20
私の記憶にある中で初めのその中央市場が休日という水曜日は、平成3年9月のことでした。% cal 9 1991というカレンダーのコマンドによると11日か18日ということになるかと思いますが、休憩室の工事が途中ではありましたが、正直どちらか判断がつきかねます。
5/11 20:20
calコマンドの結果をスクリーンショットととして次に掲載しておきます。
5/11 20:21
平成3年当時は月に1回だったように思うのですが、原則は第2,第3の水曜日となっていました。とても気になるところで正確な情報がほしいと調べてみたのですが、月に1回となると、事情も異なりそうです。
5/11 20:46
その水曜日は中央市場が休みということで、会社もずいぶんと暇そうで運転手の姿も少なかったですが、事務員の被害者AAさんと被告訴人池田宏美は出社していました。それでもずいぶんと暇そうで、早めに退社していたようにも思います。
5/11 20:46
平成3,4年当時、中央市場は土日が休みだったのか確認のため調べてみたのですが、上記リンクの東京の市場のカレンダーを見たところ、現在においても基本的に土曜日は休みではないようです。
5/11 20:46
また、その時も車のフィルム貼りのようなことをやったと思います。あるいはトラックのフィルム貼りだったかもしれません。いずれにせよ、前回のようにAAさんは手伝いには来てくれず、なにかとても申し訳なさそうな顔をしていました。
5/11 21:08
ちょっと記憶が弱くなっているので自信が持てないのですが、解散という感じで会社に人がいなくなったあと、私は大阪府の高槻市の市場に向けて出発したように思います。積み荷は馬鈴薯だったと思います。当時多かった仕事ですが、高槻の市場というのは馬鈴薯では初めてだったように思います。
5/11 21:09
馬鈴薯と言ってもメークインなどの他の品種の芋も積んでいたと思いますし、あるいは玉ねぎを積むこともあったかもしれません。中央市場の裏口の、道路を挟んで向かい側にある倉庫でイモは積んでいました。
5/11 21:09
他の運転手が嫌がる仕事であったので余計に回ってきていたのだと思いますが、とりわけ平成3年の秋は多い仕事でした。初めの頃は、東京の市場にも3回ぐらい行くことがあったと記憶していますが、大田の市場ではなかったかと思います。そこから古河の市場に向かったことも記憶しています。
5/11 21:09
馬鈴薯の行き先として多かったのは名古屋の北部市場と大阪の本場(ほんじょう・福島区)市場と、北部市場でした。名古屋の北部市場は小牧市だったと思います。ほとんどが降ろしてすぐにとんぼ返りで夜中のうちに金沢に帰っていました。
5/11 21:09
>>もっと見る