支援が届きにくい子として、

 

ムスコがその一例にあげられるのではないかと
これを書くことにしました。

ムスコは現在不登校の小学三年生です。




今年冬休み明け1月、久しぶりの登校をし、
通っている通級教室で発達検査を受けることが叶いました。

行き渋りから約1年半、本格的不登校から約1年。




ムスコは幼児期、保育園に通っていました。
 

集団の中で過ごす保育園で、ムスコは、
担任や場所に、慣れること自体時間がかかるタイプ。

担任に自分から話しかけるのは、必要な時だけ、、というか切羽詰まった時だけ。
例えば、鼻血が出たとき、体調が急変して吐きそうになったとき、
といった感じ。



年少の時、2学期の後半の懇談で、
「先生?あのな」とムスコから話しかけてくれたと、
先生が嬉しそうに話してくださったことを覚えています。
担任の方との相性にも大きく左右されるため、全然話さなかった先生も居るのです。

家や近所の人は大丈夫でも、そこから一歩外へ出るとお口チャックしてしまうムスコ。

年少くらいから徐々に挨拶ができないことが増えたように思います。



私はそのことを恥じていました。。。

 

挨拶もできない子、家庭の教育に問題があると言われている気がする、いや、絶対思われている。と、

私は思い込みと強迫観念に囚われていました。


そんな時には必ず、
わたしのトラウマが蘇ってきました。


「あなたは声が小さい」「挨拶くらいして」「のんびり屋だからもっと早くしなさい」
その言葉からのメッセージで私は自分のことが、他の誰よりも嫌いになりました。


他の人がうらやましくて、どんな小さなことでもうらやましくて、
自分は何一つ良いところがないと思って生きてきました。


私がわたしを恥じていた生き方だった。


わたしはムスコが躓いていても

 

「少々は大丈夫」「そんなこともある」 と


本人が感じている辛さは、私自身の学童期にもあったことで、
それに対して問題として取り上げてもらったことは一度もなく、

対処法なんてないに等しい。と思っていました。


「だいぶ困っている」ではなく「少々の困りごと」と捉えていたということ。


ムスコの行き渋りが始まったことから、これに向き合うことになりました。
少しずつ、少しずつ、掘り下げては辛くなりました。
辛かった時の私は、日中も睡魔に襲われ、夕方も眠気に襲われ。泥のようによく眠りました。


そこで気付いたことは、
「挨拶ができない」のは、「声が出ない困りごと」であって、教育がしつけが悪いのではないということ。
 

なぜ声が出ないのかを掘り下げることの方が、私が早急にやるべきこと。でした。


私の学童期を振り返る。とてもつらい事ばかり出て来てしまうので、出来る限り隠して、蓋をしてきた部分でもあります。

小学生の私は、困りごとを誰かに伝えたところで何も変わらなかった。


それどころか、「あなたが怠けているから。努力しないから。何度も苦しい事を繰り返し練習して、できなくて凹んでる部分を平らにするように努力しなさい」というメッセージを投げられ続けてきました。

これで学んだことといえば、。
困りごとを少し伝えただけで、攻撃されることになる

。怠け者と言われるくらいなら、伝えない方がマシ。

 

もしかして私は、、、

大人が言う通り、怠け者で、わがままで、困らせてばかりいる厄介者なのかもしれない。と。


いつの間にか、この思考が私の中に定着し、居続けています。


これは長い長い間放置してきたことだから、今すぐにでも消えてほしいことだけど、

長い間放置したことって、癒そうとしても、同じくらいの時間をかけなくてはならない様だと気づいて。

 

今、

 

わたしは途方に暮れているのです。

 



だからこそ伝えたい。という思いに駆られたから、これを書いているのですが。



子どもたちがどんな状況なのか。それを伝えたいのです。

私には伝わってくる。違和感を抱えて困っている子どもたちの心の声が。

日頃一歩外へ出ることが刺激となり、緊張やのどの詰まりが出てしまう子にとって、一日過ごすことにどれだけのエネルギーを使っているのだろうか。

それは計り知れないこと。個人の感覚だから。
絶対にわからないことだからこそ、子どものありのままを認めてあげることはできないだろうか。

たくさんのエネルギーを使って一日を乗り越え、家に戻ることは「生還する」と同等ではないだろうか。

帰ったらぐったり。床にゴロゴロ。そりゃそうなるでしょ?

それが怠けだろうか。「休みたい」はわがままだろうか。


期待しすぎの子育ての罠。
見落とされてきた子どもたちの言葉にならない困りごと。


見えていない部分がほとんど。氷山の一角に過ぎない部分を見ただけで判断し、あなたが言っていることはわがままで、怠けていると。
子どもたちに大人の期待を押し付けてはいないだろうか。


凹んでいる部分は「あってもいいもの」だと教えてくれた人はいただろうか。
反対に、凸ている部分を見つけてくれる人はいるだろうか。
家庭内では気づきにくい部分。遺伝子レベルで出来る事が当たり前だったりして、

親が気付かない事ってある。と、

 

今のわたしなら言えるから。


そして、
その飛び出ていて、とんがっている部分を見つけてくれた人がいたとして、その言葉をストレートに受け取ることができるだろうか、

それには、
土台が必要であること。

人を信じられて、自分のことも信じられる人が土台だと思う。



ムスコに支援を行き届かなくしていたのは、この私の思考の偏りも原因の一つかもしれない。


気付いてあげられる力をつけるための努力はいっぱいできた。
ムスコはとても大事な存在だから。

 

放置せずに、小さなことと投げてしまわずにいられたこと。

自分に「いいね!」してあげたいと思います。