増上寺の石灯籠は、戦後各地に散らばっていきました。その内容は以前記しました。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下抜粋です ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

<< 武州増上寺とは東京港区にある増上寺のことで、江戸時代は徳川家の広大な墓所があり、そこには各地の大名から贈られたたくさんの石灯籠があったという。1945年の東京大空襲で墓所のほとんどは焼き尽くされ、その後西武グループが土地を買収しプリンスホテルを建てた。千を超えると言われた石灯籠のうち破損を免れた641基は一旦、所沢の西武球場建設前の土地へ移されたがその後、球場建設の為、各地の寺院に寄進され散らばっていった。その行方は公表されていない為正式な記録は残っていないという。>>

 

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その石灯籠が先日セローで走った「奥武蔵グリーンライン」に2基ありました。その大きさ、形、色を見た瞬間に、増上寺の石灯籠だなって感じて、急ブレーキ。景色はいいのですが、石灯籠の足場が斜めになっているような気がします。草むらの中に入って、掘られた文字を読みます。

 

 

こちらは「文昭院」と読めます。

 

 

文昭院とは江戸幕府六代将軍家宣公(1662年〜1712年)の院号とのこと。

 

そしてもう少しバイクで走ると2基目がありましたので、急ブレーキ!

 

 

美しい曲線を描く石灯籠の文字を読みます。

 

 

こちらは惇信院と読めます。惇信院とは第九代徳川家重将軍のこととのことです。

 

西武グループは、西武球場建設にあたり、急いで増上寺に祀られていた石灯籠をあちらこちらに移動したのだろうと想像されます。増上寺の土地を手に入れたものの、そこに置かれた石灯籠の処分は悩ましい問題だったのでしょう。それぞれ石灯籠の横には取ってつけたような石碑が置いてあり、その文字も拙く、「奉 石灯籠 西武鉄道株式会社」と書いてありました。

 

 

 

徳川幕府将軍に奉納された石灯籠のその後がこのような形で散在しているのはある意味、とても残念なことです。もし、今増上寺が戦火に会いながらも、買収されずに残っていたとしたらそれは徳川幕府の歴史を感じる景観を保っていたのではないかと偲ばれるのです。

 

神社仏閣を経済理念優先で安易に売却してはいけないと今になって思うのでした。