福生不動尊の参道両側に古い石灯籠があり、以前より気になっていました。

 

 

大正11年建立の福生不動尊の歴史からすると明らかに古い石灯籠。境内の大きさからしても少し大き過ぎます。

 

今回その石灯籠に刻まれた文字を調べてみたところ次のようなことが、おおよそわかってきましたので記しておきます。

 

西側の石灯籠にはこのような文字が

 

 

武州増上寺

有章院殿 尊前

正徳六年丙申年四月晦日

豊州岡城主

従五位下内膳正源○中川○久忠

 

武州増上寺とは東京港区にある増上寺のことで、江戸時代は徳川家の広大な墓所があり、そこには各地の大名から贈られたたくさんの石灯籠があったという。1945年の東京大空襲で墓所のほとんどは焼き尽くされ、その後西武グループが土地を買収しプリンスホテルを建てた。千を超えると言われた赤灯籠のうち破損を免れた641基は一旦、所沢の西武球場建設前の土地へ移されたがその後、球場建設の為、各地の寺院に寄進され散らばっていった。その行方は公表されていない為正式な記録は残っていないという。

 

有章院とは江戸幕府第七代将軍徳川家継の院号であり、正徳六年(1716年)四月三十日、6歳の若さで亡くなった。

豊州とは現在の大分県の一部で岡城の第6代藩主が中川久忠。現在の大分県竹田市の岡城の城主が家継の霊廟に寄進したものが時を経てこちらに佇んでいるということらしい。

 

同様にして東側の石灯籠

武州増上寺

文昭院殿 尊前

(表面が削れて文字数も不明)

従五位下行○○○源朝臣忠葛

○号 酒井

 

こちらは文昭院の霊廟に贈られた石灯籠で文昭院とは江戸幕府代六代将軍徳川家宣(寛文2年〜正徳2年 1662年〜1712年)のこと。つまり西側の石灯籠の家継の父親にあたります。家宣の子は病弱な子が多く一女、三男を幼くして亡くしています。四人もの幼子を失うことは大変辛いことだったと想像されます。

 

送り主が酒井忠勝(1594年〜1647年)とすれば、江戸時代初期の大名で、出羽庄内藩(山形県鶴岡市)の初代藩主かと思われます。ただ文昭院の没年と年代が合わないのが気になります。

 

少し黒ずんでいるのは空襲で焼けたからでしょうか。

 

 

葵の御紋が徳川家の栄光を表していますが、東京大空襲で大量の焼夷弾に焼かれるとは誰も想像できなかったことでしょう。このように時代は大きく変遷しますが、石灯籠はその姿を後世に残し何かを語り継いでいくのでしょう。