1840年(天保11年)深谷市の荒物商家に生まれ1931年(昭和6年)93年歳までの生涯を随筆風に描いた評伝である。注目すべきは作者が幸田露伴「1867年(慶応3年)〜1947年(昭和22年)であるということ。したがってその表現は文豪らしく様々なところでその輝きが感じられる。

 

「人は誰でも時代の人である、時代に属せぬ人というものが有ることは無いが、その人おのずからにして前時代人のような風格を有して、そして時代に後れ、時代に埋没して終わる人もあり、また単に時代に浮泛漂蕩して、その人は有れどもほとんど無きに同じく、所謂時代の塵埃となって終わるものも有り、また稀には時代に超越して時代の人と云おうよりはその人却って時代を包有せるが如きものも有る。」

読者は書き出しの上記文章から引き込まれるように読み進めることになる。


渋沢栄一は、若くして当初尊王攘夷思想に取り憑かれるがその後に、なぜか一橋慶喜に仕えるようななる。大政奉還の動乱時には、慶喜の異母弟の昭武の付き添いとしてフランスパリにいた。そこでの外遊の経験を活かして、帰国後は静岡藩から新政府に呼び込まれ大蔵省輔事務取扱にまでなるが、予算編成をめぐり井上馨とともに辞職。その後は民間の事業の多くに関わり近代日本経済の礎となる事業の多くに関わった。その業績ははかり知れないものがあるが、栄一の思いは個人の損得勘定ではなく、人民の豊なることがひいては、日本経済の復興と国力の発展を期すとの思いから発せられていることにあった。幕末明治初期の官僚が、会計や経済などを軽視して政治や外交を論じていたなかでの栄一は日本に金融業や株式市場、資本主義を導入するのだった。

 

本書の後半、栄一が民間に身を投じてからの露伴の記述に変化が見え、単なる記録書のようになってしまうのが残念であるが、ほぼ同時代の文豪が記録する渋沢栄一伝は読み応えが有る書物である。