青少年問題特別委員会最終回 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

青少年問題特別委員会最終回

続きです。今回で終了。


石井委員 日本共産党の石井郁子でございます。地域安全マップづくりということが強調され、既にいろいろな各地の取り組みが始まっているということでございましたけれども、私はこの話を伺いまして、そういえば学校で、私たちの小学校時代も、こういうことではなかったけれども、似たような形でフィールドワークというのをやりましたよね。今だんだん少なくなっているんですね、学校では。随分、やはり地域をそういう意味で先生や大人と一緒に歩いたなということを何か思い出しているんですけれども、

これは小宮さんに対する嫌味でしょうか?
 それでいいんじゃないの?って思うんですけど。町歩いて大人に話聞いてるのは変わらないんだから。
 あのね、私も「地域学習」で近くの山に残っている防空壕に行って、その防空壕から戦争体験やら歴史に対する興味を覚えていろいろ調べましたよ。「地域安全マップ」だったら「暗くて危険」「行ってはいけない」だけじゃないの?


 小宮参考人に伺いますけれども、このような取り組みをしている学校、今どのぐらい、どのように広がっているのかということと、それを進めるに当たって、学校では、文科省のサイドで私言いますと、授業時間が少ないんだ、足りない足りないという話が聞こえてくるわけですから、これは相当学校内で教職員の皆さんとの合議が必要になるだろうと思うんですね。その辺の何か御苦労とかありましたら、ちょっとお聞かせください。

 
 ・・・・なんだったんだろう?起こしの話は・・Orz


小宮参考人 いや、もうカリキュラムが決まっていて押し込められない、いろいろなやはりそういうふうな反発もあります。


 反発がんばれー!しかし小宮さんの話は暴走します。


 ただ、これはもう恐らく学校全体の役割、これからの現代の学校の役割と関連してくると思うんですけれども、そういう知識を上から大人が伝えるとか教えるとか、もうそういう時代じゃないと思うんですよね。情報化社会ですから、子供の周りのメディアというのは物すごい発達していて、恐らく先生方も把握していないぐらいのメディアの種類。もちろんインターネットはそうですし、雑誌もそうですしね。

 学校がかつてのように、知識を伝達する、あるいは情報を発信する、そういう場という役割はもうどんどん失われつつあって、むしろ、そういう実体験をさせるとか経験を積ませるとか、あるいは、ちょっと社会に行く前にいろいろな失敗をさせて勉強させて、社会に行って自立できるような、そういう人間を養成する、そういう場として役割を変えていかなきゃならないと思うんですね。

 

 ネットとか雑誌とかあるから、学校は知識を伝達する場所じゃないと。何様なんでしょうか。経験と失敗を学ばせばいいんだと。義家みたいなこと言ってるなあ・・・勉強さしてやってくれよーー。この人さあ、なんか世論で世俗的に受けそうなことをカクテルみたいにして言ってるだけだなあ。


 そういう意味で、これもいろいろな欧米の取り組みでは、今プロジェクト・ベースト・エデュケーションと呼ばれていますけれども、プロジェクトを基盤にした教育ですね。プロジェクトがいろいろなこういうものを盛り込んできますから、何か楽しくて夢中になってやりながら、最後はいろいろな知識ももちろん身につきますし、いわゆる生きる力も育ってくる。そういうようなプログラムの一環としてプロジェクトも位置づけていますので、これだけではなくて、そういうプロジェクトを主体にした教育というのはこれから必要になってくると思います。


 で、なんか欧米のもっともらしいことを言うと。楽しければいいんだ教育論です。安全マップも「感動できればいい」だからね。所詮。


石井委員 もう一点、小宮参考人に、これは自治体での防犯モデルづくりも考えなきゃいけないという御主張をあるところで見たんですが、例えば、自治体が公園をつくるときも、見通しがよくて犯罪者が近寄りにくい構造とすることが求められる、そういうことですね。だから、子供の安全という問題は、やはり単なる通学路だけの問題ではない。まさに町づくり、子供にとって安全な町、安全な地域というような観点からも大きくとらえなきゃいけないと思うんですね。


えーっと公園で死んでる子供、平成17年は4人だけどね。


小宮参考人 委員御指摘のとおり、全くそのとおりでありまして、実際、安全・安心まちづくり条例をつくっているところもかなりふえましたけれども、やっていることは、住民がパトロールをいっぱいしなさいという、結局、住民に全部押しつけているようなところがほとんどなんですね。文言的には、犯罪の起こりにくい公園をつくるとか犯罪の起こりにくい道路をつくると書いてありますけれども、それはあくまでも言葉だけで、実際にそういうふうに動いているかというと、ほとんど動いていないというのが実態です。


道にこぶ作れって話ですね。


石井委員 近年、日本社会で起きている一連の問題というのは、どういう傾向として見たらいいのか。これは、社会的な背景だとかあるいは子供の生育過程だとか、いろいろなことが絡まっているかもしれませんけれども、何かその辺での御示唆がありましたら伺いたいということ。
 それから、性犯罪では、やはり被害者の実態がつかめないということも出されたと思うんですよね。だから、なかなか子供が言わない、こういうことがあったということを言わないことがわかりにくくさせているということがあるので、よく子供から聞ける関係、子供が言える関係をつくるべきだというお話は、私は大変大事だというふうに思いましたけれども、ちょっとその性犯罪の日本の最近の何か傾向というか問題点というか、そういうことで教えていただければと思います。


森田参考人 私は、恐らく百年前も、もしその当時そういう意識があって統計がとられたら、同じ数値が出たかどうかはしれませんけれども、そんなに大きな変化はなかったと思います。
 ちなみに、子供に対する殺人事件及び殺人未遂、特に今ふえていません。これは、統計自体が平成元年からしかとっていません。平成元年からそんなに今急増しているわけでは決してない。


 昔は子供殺してますよー。子供に対する殺人事件及び殺人未遂、大変減ってますがね。
 平成元年しかからとってない?ええかげんなことをいってもらっても困りますね。警察庁「犯罪統計書」を見てみなされ。
 平成11年に警察庁から「女性と子供を守る施策実施要綱について」という通達が出され夫婦間、親子間の暴力事案、ストーカーの対応など積極的に対応するようにという通達が出された。ある意味事案の掘り起こしがされているのであって、「治安が悪くなった」とか「日本の家庭がどうにかなっている」というよくある言説は違うと思われます。

 その証左としては暗数が少ないという意味で子供の「殺人件数」は減少してるわけです。


 マスコミに登場する識者の多くは警察が介入すればいい、虐待を知ってて助けられなかったと、児童相談所をバッシングすればいいって話だけになってたりしますが、虐待する親から子供を引き剥がしても、他国にあるような里親制度もないに等しいわけで、家に戻しても虐待復活とかになってたりするわけでしょう?そういった社会制度としての不備をきちんと実態をもとに指摘するんなら意味があると思いますよ。


 危機言説をあおって、日本の「治安」不安だけを作り、社会的背景がないとかあるとかではなくて、個人的にはさまざまな事情があるわけです。被害者の味方のふりをするのは簡単ですが、私は「大声プログラム」で予算をぶんどりに行くのではなくて、こういうとこでしゃべる人はそうしたところまで言及する誠実さをきちんともってほしいと思いますね。


さて最後は保坂さんです。


保坂委員 小宮参考人に伺いたいと思うんですが、不審者マップが差別を引き起こしかねない、まさにそのとおりだと思ってお聞きしました。


 小宮さんがやってること自体がそうなりますゆえ。


 ちょっとお話をお聞きしながら、私、多分今から三、四年前に酒鬼薔薇事件の起きた町を訪ねるという機会がありました。自治会長さんが迎えていただいて、保坂さん、では今から案内しますが、このビデオを見てくださいとビデオを見せられたんですね。そのビデオは、NHKの「ご近所の底力」というビデオだったんですね。これはその事件と何の関係もないんですね。むしろ空き巣のない町ということで取り上げられていたんですね。要するに、地域が声をかけ合って非常に高緊密につながっているというビデオで、事件現場を全部案内してもらいましたけれども、行く先々でいろいろなボランティアの方とか、いろいろな方たちがお互いあいさつをする、声をかけ合うというのは、なかなか見事にできていましたし、地域に事件以前にはなかった交番ができていて、これは交番といっても自治会交番で、そこに近所の方が詰めているということは、これは事件後にあったそうなんですね。
 さて、そこでなんですが、あの事件があって大騒ぎになったからこうなったんですかと言うと、そうじゃないと言うんですね。もともとこの町はこういう町だったんだと。いわば、非常にコミュニティーが緊密だというところでああいう事件が起きたというあたりのことを、どういうふうに考えますか。

 

 治安対策で「コミュニティ」を強くすればいいんだという小宮さんに、「もともとそういう町だったみたいですが?意味ないんじゃね?」というつっこみ。


小宮参考人 もしかしたら見解の相違があるかもしれませんけれども、あの事件も私も現地でいろいろ調べましたけれども、最初に三月に起きた山下彩花ちゃん事件のとき、あそこは竜が台地区、竜が台地区は非常に入れかわりが激しいようなところで、ほとんど何もその地域のことをやっていなかったんですね。ところが、事件が起きたために、結びつけ合おうということで、いろいろな場所を犯罪に強くする取り組みをやりました。
 ところが、そちらの竜が台地区で山下彩花ちゃんの事件を受けてやっていたときに、隣の北須磨地区ですね、そこでほとんど何も動きがありませんでした。確かにここは地域のきずなが非常に強い、むしろ竜が台地区よりもともと強いところでした。ところが、あれは隣の地区のことだからうちは関係ないということで、残念ながら何もしていなかったというのが、私から見る実態です。ですけれども、今度は自分のところで起きたので、また動き始めましたけれどもね。
 ですから、もし望ましかったのはということで言うのであれば、竜が台地区で起きたときに、その地域にもともとあった力を利用して同じような対策をしていれば、もしかしたら防げたかもしれないというのが私の見解です。


 「竜が台地区(山下彩花ちゃん事件)は事件のあとに治安活動やってたよ。北須磨地区はもともと強かったんでやったなかったよ、もともとあった力を強化してやってれば防げたかも」という弁明。・・・・なわけないじゃんよ。供述調書読んでないんかねー詭弁だねー。・・・あらスルーですか。


保坂委員 いろいろな形で、子供の安全ということでいろいろな声に対応していらっしゃる。そういう中で、私、この議論の中で大切なのは、やはり子供たち自身が、例えば強い仲間意識とか、あるいは友達を守るとか、だれが見えなくなったからどこへ行っちゃったんだろうというような横の連帯感ですね。これというのは、かなり希薄になってきていると思うんです。


 子供たち同士の連帯が薄いと。「関係希薄化」じゃないかという質問ですね。

 どっちかいうと集団になっていじめて殺したとかじゃないの?集団になって暴れたとかさ?が問題になってませんでしたっけ?

 金八とかが人気だったころはね校内暴力とか暴走族が話題になったから、「個」だ「個性」だといってて、次はじゃあ「関係性が希薄だ」とかいってもなあーそりゃ真逆じゃないの?私が聞いてても冷めますがね。
 それになんか一番目の質問と「関係性」って意味でとらえると主旨がぜんぜん違うんですが?


 なぜ希薄になってきているかというと、実際、室内で何人か集まって遊ぶことはあったにしても、外で遊ぶということが今ほとんど難しいですね。難しいだけじゃなくて、去年以降のいろいろな子供の事件続発でますますしにくくなった。でも、反面、子供たちが大きな声を出したり、それこそ興奮したり、叫んだりしながら楽しく遊ぶということは、やはりお互いの横のつながりと子供たち自身の力をつくることになると思うんですが、その辺の遊びと子供の安全について、相反する面もありますが、どう考えていらっしゃいますか。


 外で遊んでないから関係性ができないんじゃないかと?子供同士が遊んでる牧歌的な風景を夢想されてませんか?そういう論理なら家の中でさまざま世代の子供たちがいっしょにテレビゲームとかして興奮したり、叫んだりしながら楽しく遊んでたらいいんじゃないの?と思うんだけど、「外」なら「善」って思ってるよね。


横矢参考人 先ほど、幼児のころから教育していったらいいという話をしましたけれども、最初は遊びの形で入っていけるといいなと思っています。鬼ごっこですとか、それから、だるまさんが転んだとか、そういったものでもいいですし、ゲームをしながら、体を動かしながら危険について学んでいく、対策を考えることが苦じゃなくなるというような形にしていきたいというふうに思っています。


 「鬼ごっこ」とか「だるまさんが転んだ」ね。まあ幼稚園でふつうにやってるでしょう?なんか本当にそのへんの人でも思いつくようなことしかしゃべってないよなあ。


保坂委員 最後に森田参考人に伺いたいんですが、きょう印象的だったのは、特別な声なんですね。時折、国会というところでも与野党激突の折には特別な声を出すこともあるんですが、ですから結構皆さん方大きな声を出されたかもしれないんですが、以前に、超党派でやっておりますチャイルド・ライン議員連盟というところでトレーニングをやってもらったりして、その後文部大臣になられた河村先生なども子供になって、土井たか子さんなども演じたということが随分前にございました。


 まあ大変印象的ではありましたね。


 最後に国会に対して、立法府に対して求めたいことが何かございましたら、まとめて言っていただきたいと思います。


森田参考人 私は、子供の防犯とか子供の安全対策の最も重要なことは人権感覚だと思います。子供自身が人権の感覚を持つ。
 ただ、この人権という言葉なんですけれども、大分汗まみれ、泥まみれていて、いろいろな反発を感じる言葉であるかもしれません。人権三K論などというのもありまして、人権は暗い、何か、ちょっと思い出せないんですけれども、私は、人権ということをもっともっと当たり前に考えたらいいと思うんです。
 人権とは、私はとても大切な人で尊重されるに値する、同じように、あなたもとても大切な人だよと。私を大切にしない恐ろしいことをする人がいたら、たとえその人が校長先生に似たようなちゃんとしたスーツを着ている人でも、私は嫌だと言いたい。いいよ、言っても。言えないかもしれない。そしたら言えなくてもいい、でも言ってもいいんだよと。そして、あなたもだから自分のことを大切にしていってよ、これが人権意識ですよ。安全のすべての根底だと思います。ですから、児童虐待防止法にも連なるところだと思います。
 その子供たち自身がそういう気持ちを自分の中に育てていくということが、CAPのプログラムの中では、概念的に、安心、自信、自由だよといろいろな手を使ってやって、それを具体例を見せながら、あれ、今どんな気持ち、こんな事件があったらどんな気持ち。安心じゃないね、自分に自信感じられないね、だってもう何にもできないと思っちゃうもん。それで、自分で選べないよと。自由って、自分で選べないということですからね。いじめで、おまえかばん持て、金よこせ。よこすしかない、自分で選べない。この三つの気持ち、安心じゃなくて、自信じゃなくて、自分で選べないという状態だったら、大変なんだから。ぴんと赤信号立っているよ、それは、あなたの奪われてならない人権が今脅かされようとしているから。できることがあるよと、そこはすごく重要ですね。多くの場合、プログラムは、そうだよと終わってしまう。そうすると無力感ですよ。でも、いや、できることがあるんだよ、できることって何だろうと。それを一言で言ったら、ノー、ゴー、テルなんですね。最後に最も重要なのは、だれか信頼できる人に話すんだと。


 ノー、ゴー、テルって、「ほう・れん・そう」「報告、連絡、相談」みたいなもんかね。会社入ったときに新人研修とかでいわれるやつかね?


 そういう意味で、人権ということ、子供の人権を大人も尊重していくということが子供の安全対策の基本ではないかなと思います。子供自身が自分を大切に思い、大人たちも、子供の声をちゃんと聞いていこう、尊重していこう、子供の気持ちも尊重していこうと。そのためには、先ほど、自分で考えること、自分で行動していくこと、何回か発言があったんですけれども、私はそれだけでは十分じゃないと思います。


 最も重要なことは、自分で感じるということですね。怖い、嫌だ、腹が立った、頭にきた、うらやましいな、ねたましいな、どんな感情もいけない感情なんかないです。その感情に自分で気がついているということが出発点だと思います。人は、考えるためには感じなければ考えられないですよ。感じないで考えているということは、だれかが言ったことをそのまま自分の頭に入れていることです。

 

 あなたみたいな人が「人権」「人権」いうから陳腐化するんじゃないかなー。


 でも、私は、日本の学校教育、特に中学校以上では、感じることは勧められていないですよ。自分で感じることは勧められていないですよ。このように感じなさいと。自分で感じることを発言していくと、すごく周りから抑えつけられていってしまう。もっと気持ちということを尊重していっていいんじゃないのかな。その気持ちは、幸せ、うれしい、元気という気持ちだけじゃなくて、腹立った、そういう気持ちもとても重要ですよ。悲しいという気持ちも重要です。


 「感じることは勧められてない」って・・・。勧めるもんだったの?つまり日本の子供「不感症」ってことですかね? 日本の子供は「感情がない」とかいってるのを変わらないと思うけどね。

 はい結局コミュニケーション論で終わりでした。「安全」がどうのっていうか結局教育論なのよね。

 コミュニケーションは大事だよね、会話も大事だよね、で?ってかんじですが。

    
 午前九時開議
 午後零時三十七分散会 という長丁場の委員ですが、内容こんなもんですー。お疲れさまでした。


全文はこちらを。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/007316420060214002.htm#p_top