続き | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

続き

さて前回のエントリーの続きです。「愛と暴力の現代思想」から矢部史郎さんの文章を抜粋します。ブルーの文字は私が加えました。

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90年代のハリウッド映画は、「性格異常者」による猟奇連続殺人を繰りかえしてきた。『羊たちの沈黙』、『セブン』、『コピーキャット』、『ストレンジャー』、『ボーンコレクター』など、動機の不可解な「性格異常者」による猟奇連続殺人を描いた一群の映画がある。


そのなかで本当に恐ろしい作品は『セブン』である。映画がグロテスクであるとか登場する「性格異常者」が想像を絶しているというのではない。『セブン』が傑出しているのは「性格異常者による猟奇的殺人」という形式を転用し、その構図を完全にくつがえしている点だ。(略)


キリスト教の7つの大罪である「高慢(pride)、貪欲(greed)、色欲(lust)、怒り(angry)、大食(gluttony)、羨望(envy)、怠惰(sloth)」に基づいた連続殺人事件に退職間近の老刑事と赴任したばかりの新米刑事が挑む、というものだ。


犯人は罪のない無関係な人間を捕らえ、監禁し、拷問にかけたうえ殺戮していく。まず始めに肥満の男(合衆国の文脈では肥満=貧民)が「大食」の罪で拷問にかけられ殺される。次に弁護士が「貧欲」の罪で拷問にかけられ殺される。三人目の被害者は「精神病質者」である。彼は1年間ものあいだベッドに拘束されたあげくミイラのような姿で発見される。ベッドに書き残されたメッセージは「怠惰」だ。(略)


事件を相当する二人の刑事は、現場に残されたメッセージを解読しながら、犯人の不気味な動機に気付いていく。犯人は「性格異常者」ではない。自らの欲望や快楽のために野獣のように無差別殺人を行っているのではない。犯人は無差別に殺人を犯しているのではなく、きわめて厳密に差別的に虐殺の対象を選び「罪状」を宣告し、「罰して」いるのだ。貧民(大食)、弁護士(貪欲)、精神病質者(怠惰)、娼婦(色欲)、女(高慢)というように。こうした対象の選別と「罪状」は「異常」であるどころかむしろきわめて「正常」で「保守的」な、なによりも警察的な世界観に基づいている。


犯人は訴える。乱れきった社会に秩序を回復するためには小さな罪を許してはならない、野放しにされた小さな無数の罪人を捕らえ先制的に見せしめ的に制裁を加えなければならない。そうして社会を引き締め、犯罪を予防し、秩序を回復させようというわけだ。略)


「秩序感の回復はNPOや地域住民組織による犯罪予防施策として実効性が期待できる分野である。ガーディアンエンジェルスの創始者であるカーティススリワが最初人を集めて行った活動が店の前の掃き掃除であったことは示唆的である」『警察公論』より抜粋。

レレレのおじさん(by矢部さん)を警察官にしようと警察が狙っていたことなどなかなか気が付かないものである。


犯人は警察の無能を嘲笑い、私刑と見せしめの有用性を訴える。「社会防衛」という同じ動機に基づいた二つの暴力がその正当性と無法さを競い合いながら死体を積み上げていく。ついには若い刑事が犯人を撃ち殺し7つの処刑が完成する。犯罪と警察が混ざり合い、分割不可能な地点に到達する。それはもっとも強大な暴力がもっとも弱弱しい被害者意識と融合する地点、強者と弱者が反転する地点である。


日本の話をしよう。毎年発表される「警察白書」の前文に、大きく「被害者対策の推進」という項目が登場するのは、1996年である。直接には「地下鉄サリン事件」を受けての対応であるとされている。「被害者対策」がそれ以前から強調されていた「治安」や「地域安全活動」と異なっているのは、被害者の「精神的被害」や「被害者の視点」、当時のマスコミの論調でいえば、「被害者(遺族)の心のケア」に取り組もうとする点である。(略) 

「遠山の金さん」や「大岡越前」のようなテレビドラマのお話であれば許容されるかもしれないが、それを現実化してしまうなら、前近代的な妄動というほかない。


警察による「被害者対策」の不当性は次のような文章に現われている。


被害者の方へのお願い

被害者の方には、刑事手続き上必要なさまざまなお願いをし、そのことでご負担をおかけすることもあると思います。


ご本人にとっては、早く忘れたい事件をもう一度思い出すようでつらいことと思いますが犯人を逮捕し、厳しく処罰する上で重要なことばかりです。


あなたのため、そして同じような被害に遭う人をなくすためにも是非ともご協力をいただきたいと思います。


特にうがった見方をしなくてもこれは問題のある文章だ。三つの文にそれぞれ問題がある。

まず最初の一文から危険だ。被害者が負担を強いられているのは言うまでもないことだが、それは犯罪に巻きこまれたことが負担なのであって「刑事手続き上必要なさまざまな」ことが負担なのではない。(略)次に被害者が警察に協力するのは犯人を「厳しく」処罰するためではない。そして最後の文。報復感情を焚きつけている。そして最後の文。ひとつの犯罪を裁いたからといって、そのことで「同じような被害に遭う人をなくす」ことなどできない。(略)

問題を誇張して3つの文をつなげば、1.法律刑事手続きというのは面倒だか 2.犯人を捕まえて厳罰に処して 3.見せしめにしてやりましょう、と読むことができる。そんなことを言うつもりはないと警察庁は言うかもしれない。しかし、そう読むことができてしまうということが、すでに大問題である。略)


「警察関係者の論文から:1998年-罰金刑の場合には数万円では感銘力に乏しく、月給並の刑罰とすることが「痛み」を持つものとして必要である」

「警察関係者の論文から:2004年-犯罪に対して社会の成員に応報動機が存在すること、社会の連帯性が弱まるなかで価値の再確認のために一層加害者を強く罰することに向かうことを指摘する。重罰化が非合理であることを主張する論考は多いが社会的実態として処罰要求を満足させることが社会安全政策上の機能として存在し、かつ求められていることを軽視すべきではない」


あのね、陰謀論とか楽しがって書いてる人もいますけど、警察の方々は市民感情よーくわかってらっしゃるのです。下線部のように、わたしたち市民は社会がなんだか嫌なかんじだから「遠山の金さん」的に連帯するしかないだろう、と。「よっしゃ、おまわりさんが金さん的連帯を実現させたるためにこりゃ被害者利用させてもらいまっせ」っていう話なのです。

ふつふつと怒りがこみあげてくる失礼な物言いである。

罰金だってもう数万円で「感銘力」十分です。だいたいなんだ「感銘力」って。「警察の皆様、すいませんでした。感銘を受けました ウルッ」とでもすると思ってんのかしら。一番怖いのは警察自身が「暴走」していることに気が付いていないことだ。


このまえタクシーの運転手がこんな話をしていた。

「今ですね、朝の5時にぜんぜん人さえも犬さえも猫さえもいない外延前で民間の駐車違反の取締りやってんですよ。びっくりしちゃったねーお姉さん。働きものだよ、貧乏人。そのうち貧乏人対貧乏人の殺し合いが起きるねー 笑」

タクシーの運転手が「サラリ」とわが身の「殺人」の可能性を笑いながら語る。

おしゃれな青山の町のはずれで、ガラガラの道路で、生まれなくてもいい犯罪が「セキュリティ」によって、生み出されていくのかもしれない。



現在マスメディアは、街の落書きを指弾するキャンンペーンを行っている。落書き追放キャンペーンの要点は落書きをされた地主や商店主を弱い被害者として演出することである。落書きをとりあげるテレビ番組はすべて彼らの被害者感情を中心に組み立てられている。「自分の家に落書きをされたらどう感じるのか」云々。一見わかりやすい、しかし根本的に誤った絶対に容認できない論法である。

現実には落書きをする者とされる物は対称的な関係にはない。他人の家や商店に落書きをしている者たちは、ほとんど自分が落書きをされることなどありえない貧しい若者たちである。彼らは落書きをされるような、まして東京の一等地に塀を所有しているような連中の「被害者感情」など共有できるわけではない。まったくふざけるなというのだ。落書きをされたものの気持ちを想像しろというなら、落書きをする若者たちはおろか、ろくな仕事にもありつけない若者たちの絶望を想像してみよというのだ。

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90年代に知識人たちが「酒鬼薔薇」事件をネタに話していたことは今読めば精神科医的「心の闇」解釈の域を一歩たりとも出ていない。ようするに「ハリウッド映画」である。

矢部さんは、陳腐なハリウッド映画をつかって、現代思想村ぽいぽい「語り方」のお作法を転用して、「現実」をグロテスクに起こしていく。


私は「当事者の気持ちになれ勝負」というのもういい。そんな人を殺したり殺されたり、精神障害でもボーダーでもいいが、頭がおかしくなったりする「気持ち」に、そうやすやすとなりたくないし、そんな想像力もってどうするんだろう。「加害者も被害者もひとつ間違えばあなたもなってしまうのですよ」という言葉自体が気味が悪い。私をそんな世界の住人に落としてくれるなというのだ。

そんな当事者の話を聞いたらまず「言葉を失う」のが健全な感性ではないかと思う。 「気持ちがわかっていない冷たい人」などと文句いっている人のほうがなぜそうもやすやすと他人を断罪できるのか、その感性のほうが愚鈍だと思う。言葉を失った焦燥感を隠したふりして、だからこそいばりくさって、他人に話す。品がない。こんな子供でもいえる言葉の裏で大事なことが忘れ去られていく。

「おかわいそうですね」「むごたらしいですね」「大変ですね」「わからないですね」「ねー」という言葉や会話がそれほどほしいのか。私はいらない。


学校の教員をしている友人が東京に遊びにきていたので、くだらん話をしながら、あー学校がいかに「安心・安全」に支配されてるのかがよくわかる。よーわからんが「支配」っていうのは自分が嫌だろうが反対であろうか巻き込まれるものだと思う。ちなみに友人の学校は地方の小さな学校です。

友人「朝は通学路に保護者たってるし、下校は田舎道を軍隊の行進みたいやで。田舎道に軍隊行進。かなりな微妙な風景やわ。うちなんか田舎やから、学区広いやん、下校のときな、うちらがどこまで送ればいいねんなーって文句いうてるわ。だいたいなーほかに仕事いっぱいあんねんて。私ら警察じゃなくて教員やって。校門が閉まってへんかったとか池田小の事件とかで新聞のるけど、うちの学校なんて、そもそも塀も門もないねんけど(笑)。どうせーつうんやろ。田舎の学校なんてみんなそんなもんやで。塀とか門とかつくらなあかんのかなあ。土日は学校地域にひらいてんねんけど、誰がくるかわからへんから名札作れっていわれて残業やで。仕事が増えるやん。かなわんわ。

「地域安全マップどうなん?」

友人「なーあれなー意味ない思うで。田舎なんて死角がどうのいいはじめたら、うちなんか地域全部死角だらけやけど(笑)。いらん仕事増えるばっか。うちら警察の手先違うと思うねんけどなー。あの理論でいくといちばんいいのは東京大空襲のあとの焼け野原か原爆落ちたあとの広島やね(笑)」

「ははは、死角もないけど、家もなしやなあ。」



続く