包丁じいさん | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

包丁じいさん

読売新聞の記事に2004年末このような投書があった。


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「不審者」扱いで寂しい気持ちに

 私には一歳十か月になる息子がいます。最近はかなりわんぱくになってきて、買い物をするのも一苦労です。機嫌が悪ければ五分もたたないうちに騒ぎ出し、ゆっくり買い物をする暇もありません。

 そんな私を気遣って、夫が「子供を見てるから買い物に行ってきたら」と言ってくれたため、久々に一人でスーパーに行きました。ゆっくり買い物をすませ、気分良く家に帰る途中、小学校一、二年生くらいの女の子二人が道路を挟んだ向かい側で遊んでいるのを見掛けました。

 息子もいつか、あんな風にお友達と遊んだりするんだろうなーと見ていたら、女の子の一人が「あの女の人、今こっち見てたよー」と何度も友達に言い、友達も「えー見てたのー」と警戒したような表情をしました。そんなにジーと見ていたわけではないのですが、二人は、私を不審者とみなし、私が帰る方向をじーっと見ていました。

 私は、すっかり寂しい気持ちになってしまいました。幼児の誘拐や殺人が起きている中、警戒する必要があるのは、私も子供がいるから分かります。でも、こんな田舎の町ですら、誰も信じてはいけないのでしょうか。これから息子にどう教えていけばいいものか、悩む毎日です。 2004年12月16日

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 今学校、地域社会、警察が「不審者対策」をすすめている。悩むだろうなあと思う。「人を信じなさい」とも「人を信じるな」とも言わなくてはならない状況なのだ。さまざまな統計が日本が安全な国であることを証明しているのに「犯罪不安」は高まる一方だ。子ども自身も知らない人は全員不審者であると教えられる。「大声で叫びなさい」。

 

 ちょっと同じ読売新聞の昔に遡ってみる。昭和55年(1981年)である。このころの読売新聞には読者投稿を記者がまとめる形式をとった「窓」という人気コラムがあった。うちの親なんかは別の新聞もとっていたが、「窓」が好きだから読売をとっていたほど、とても人気のあったコラムである。朝から感動してよく泣いていました。うちの親。

 このコラムをまとめた文庫本があるのだが、たかだか20年前ほどだけど、どれほどわたしたちが社会を見る目が変わっているのかがわかる。

 つまり大手新聞の記者が何をとりあげているかは、世間に向けてこれは受けるだろうというものだからだ。つまり、その時代の読者の「常識」であり、世間が「正義」と思ってるものだ、という認識で以下書いてきます。


 まず1冊目の単行本だけを見ると、全95コラム中、「若者」論という観点だけで見てみると、「少年」総体でバッシングしているものはひとつもない。

 ちょっとそれっぽいなーっと思われるのは、バッシングというほどでもないが、生徒たちが面白半分に突き落とした窓枠を大工の父親が黙って直してあげたというコラムがひとつ。暴力的な子どもらが増えてるみたいだが良いお父さん良い見本を見せてやったね(非行少年は話題になってた時代である)的な話。それに感動した読者が「いいお父さんですねー」うちの学校の先生にもこんなステキな先生がいるんです、うちの娘が先生のこと大好きなんです、というネタ受けのコラムがもう1本。あと暴走族のケンカで死んだ被害者からの手紙がひとつ。それは暴走族許すまじで締めくくられる。


 ちなみにざっくりとした社会認識は、コラムや解説を読むとこうである。『社会が殺伐として個性が重視されて価値観が多様化して、まわりの人が何を考えているかわからない時代になった』ということだ。

 このあたりは今でも同じこといってる人たくさんいますね。もう20年前から日本は不透明で多様化して(それなりに)不安な時代だったようだ。基本的に人生に対して「不安じゃない」人なんていないんで、「不安」で語ると、いつでもどうとでも語れる、煽れるという意味では便利な言葉なんですね。

 

 まず「窓」は55年の1/1にコラムがスタートして、コラムの紹介記事が2回分あって、実質初回の日常ネタは以下の話しからスタートする。一番最初のコラムなので記者としてはかなり気合入ってるだろう。コラムの方向性を出さねばならぬからな。


 タイトルは

 「包丁じいさん さようなら」


 さて、タイトルだけ読んでどういう内容だと思います?


 「学校の近辺で怒り狂ってる変態がいました。街の住民の通報でつかまってホッ、こんな変人は世の中からさようならじゃ。まったく日本人はどうなってしまったんだ。未然に犯罪を防がなくてはいけない。治安管理をしゃんとせい」


 ・・・・・という話しではない。こういう内容だ。

 

 大阪城東区に包丁とぎのおじいさん、沖田昇さん(74)という方がいる。千里ニュータウンの団地に毎日通い、ていねいな仕事ぶりで評判だったが、それ以上に子どもにやさしい人柄で、いつもおじいさんのまわりに子どもの輪ができていた、という記事が社会面に掲載され、その反響が大きかった、ということを受けてのコラムだ。そのおじいさんが亡くなったこと知って取材した山田記者がその交流と思い出を沖田さんの家族と涙ながらに語るというベタな感動話である。その後「包丁じいさん」は2回も記事になっている。


 ちょっと状況を想像して欲しい。団地の隅で、どっさりと包丁をもってるじいさんがいる。そして団地の広場かなんかでシューッシューッと包丁を研いでるじいさんなのである。

 今そんなじいさんのまわりに「子どもの輪ができる」ってことが、果たしてありえるんだろうか・・・・。母親が寄せ付けるんだろうか。不審者メールで通報されるだろう。


 ちなみに現在包丁をもっているとこういうことになる。状況はぜんぜん違うが、なんてスピーディーなんだ。「非常事態警報」のようだ。

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◇地域ぐるみで子供見守る

 熊本市島崎の住宅街で先月、刃物を持った男がうろつき、近辺の学校に緊張が走った。男が銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、事なきを得たが、新たな課題も浮き彫りになった。子供たちや保護者の不安がぬぐいきれないのだ。大阪教育大付属池田小学校の乱入殺傷事件から4年、学校の防犯意識は確実に高まっているというが、今何が問われているのか。現場近くの熊本市立一新小学校の一日を追った。

 「島崎のコンビニ前に、包丁をもった男がいる」。警察に110番が入ったのは5月23日午前10時21分。その10分後、2時間目を終えた休み時間に警察から一新小に伝えられた。

 同校の対応は早かった。小畑功教頭は「外で遊んでいる児童は教室に入ること」と校内放送し、担任教諭が学校周辺に不審者が出ていることを子供たちに伝えた。

 午前11時5分、一新小から約500メートル離れた、同市島崎の新島崎橋で検問中の警察官が男を見つけ、現行犯逮捕。事件は幕を閉じた。

2005年6月6日 毎日新聞

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 ちなみに、昭和55年という年は、子どもの犯罪に対して、何も起きなかった年ではなく、実は大事件が起きている。世の中が固唾を飲んで見守った誘拐事件でのちに小柳ルミ子さん主演の「誘拐報道」という映画になったくらいだ。

 そして、子どもへの犯罪は現在より昔のほうがかなり多い。


 さらに、この窓のコラムはある殺人を犯した少年Aをとりあげている。もちろん酒鬼薔薇少年ではない。父親を殺した少年だ。


 ちなみにその少年は小学校6年生である。


 先を読まないで、頭に浮かぶ言葉を少し眺めてもらいたい。なんて書いてると思います?





 「幼児虐待による性的サディズムで、バーチャルな世界とリアルの境目がついてなく、父親を虫ケラのように殺してしまうように何回も刺して殺してしまった。動機は人を単純に殺してみたかったのだ。もうこんな子どもはわからない。前兆行動として、猫にいたずらしていたらしい。精神科医にみてもらって心の闇を解明せなば。一生出てくるなー。日本の少年はどうなってしまったんだー。もう若者はダメだ」

 

 もちろん・・・・・そういう内容は書かれていない。


 当時の投書はこうである。


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 先月末、酒びたりで母親に乱暴ばかりしていたお父さんを殺されなければならなかった小学6年のA君の心の中には烈風が吹きすさんだことでしょう。A君を激励するお手紙を何通もいただいています。


〈いつも窓を楽しみにしております。愛媛県に住む30際の主婦です。新聞を読みながら涙が止まりませんでした。この子のやさしさに涙が止まらないのです。私も子どものときに両親のケンカを見たことがあります。何がつらいといっても両親のケンカを見ることくらいつらいことはありませんでした。そのときはそっと自分の部屋でノートに黒のマジックで「とうちゃんのバカ」を書きなぐったものです。父親が憎くてたまりませんでした。どうぞこの男の子が、これから先、ぐれないで育っていってくれますように祈らずにはいられません。〉


 いまA君は広島県中央児童相談所に保護されています。広島支局の話しでは、お母さんはショックで床についてますが、これまでに二回面会し、少年が母親をいたわっている様子がはた目にもよくわかったといいます。「1日も早く悪夢を忘れて立ち直ってください」という激励文や見舞金も全国各地から次々に広島支局や相談所広島西署などに届けられてます。お母さんは「みなさまにお礼状を出せませんがよろしくお伝えください」と涙ぐんでいられてそうです。傷心の少年とお母さんが水いらずで暮らせる日が来ることを祈りたいと思います。

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 殺人を犯した少年の「優しさ」に涙が止まらない主婦が今いるんだろうか・・。まあ別に涙しなくてよいですが・・・。

 両親がケンカしている家なんていくらでもあるだろう。酒好きの暴れる父親だっているだろう。「とうちゃんのバカ」と書くのと「殺人」にはえらい隔たりが・・・・。とかいろいろ今のわたしたちは突っ込みたくなるが・・・。

 

ようするに、この時代のわたしたち「傍観者」の感情移入先は「加害者」なのだ。ここに「被害者」の影も形もない。お父さんは殺されて当然なのである。

 たかだか20年でいったいどうしたことなのだろう。「少年が変わった」とかではなく、この傍観者、わたしたちの「変化」のほうが変数として明らかに大きい。

 

加害者をネタにして「社会」や「自分」を語ることが「常識」だったし「正義」だったのである。そして、この昔のこういう解釈の仕方が別にいいとは思わない。

 でも今この事件が起きたらどうなるだろう、「児童虐待」やら「心の闇」やら「~症候群」とかつけられ、そして新聞には被害者の手記が掲載されるのではないかなと思う。

 そして事件を契機に規制条例のネタになるのではないか。「わからないもの」として処理しようとしているようだ。

どっちがいいとか悪いとかではなく、どっちもイビツだろう、


 さらに付け加えると、95のコラムの中に今はよく見かけるが、ひとつもないもの。それは精神科医のコメントである。

 そして、余談も余談であるが、このコラムを支えているスーパー記者のひとりが今フィギュアに対してなんでかえらい恐怖をしている大谷昭宏氏なのである。

 私は大谷氏がどうしてここまで変わるか、何が何だかわからんです。