山形浩生さんに誉めてもらえた(わーい) | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

山形浩生さんに誉めてもらえた(わーい)

 ソフトバンクパブリッシングのメルマガ で「ホラーハウス社会」(芹沢一也著作:編集安原)を山形浩生さんに誉めていただいている。嬉しい。単純に嬉しい。青木るえかさんにも「週刊朝日」で誉めてもらえている。

 こういう賢ぶらない楽しい文章の論者に誉めてもらえたというのも、非常に嬉しい。


●山形浩生さん

 そうした通俗若者論は単に実態を見ない年寄りの冷や水なのか、という点をもっと怖い視点で掘り下げたのが芹沢一也『ホラーハウス社会』(講談社プラスアルファ新書)。これもまた、少年犯罪についての世間的な認識を一つのテーマにしている。もう一つは精神障害者。少年の凶悪犯罪はちっとも増えてない。精神障害者の犯罪も増えていない。にもかかわらず、思いついたように問題視されて制度が変えられてしまう。それはむしろ、社会が変わったのだ、というのが著者の主張だ。

そして社会の機能とはひょっとするとまさに、人々のために(お化け屋敷が次々に新しいお化けを繰り出してくるように)新しい心配事を作ってあげることなのかもしれない。すると人々がホラーハウス社会から出ることは永遠に……。【一部抜粋】

●青木るえかさん

 そりゃあ自分の隣に包丁持ってハアハア「殺してやる」と言いながら立ってたらコワイだろう。しかしそういうことではない。いつも思うのは、世の中には凶悪殺人事件はいっぱいあり、いちいちその犯人の顔を覚えておらず、覚えているとすると死刑執行の時に新聞に写真が載る時ぐらいで、死刑じゃない人はだいたい出てきてるわけだ。すれちがってもいるだろうしラーメン屋で相席してる可能性もある。そう考えるから私は酒鬼薔薇くんがどこにいようとあんまり気にならない(逆にもっと気になる人もいるだろう)。

 犯罪において、被害者も加害者も傍観者も、全員がちがう物の見方をしているのは当たり前のことである。それを、加害者の人権、被害者の心情、傍観者の恐怖心を、それぞれ必要以上に煽るような言説がその都度燃え上がっては消えたりくすぶったり再び炎が勢いを増したりする。それで均衡が取れるかというとそんなことはなく、ただ、加害者を必要以上に叩き、被害者を傷つけ、偏見を助長し、暮らしづらい世の中にしていくだけだ。【一部抜粋】


 山形さんは著書のなかで以前このようなことを言っている。

「僕は原理直結型の文章は嫌いだ、本を読んでいて論理構造が絵のように浮かばなくてはいけない。多くの論者は線を引くだけで満足している。それは頭の体操でしかない。そうではなく、多くの線の中から中間的な部分で何かを確定させることだ。」

 芹沢さんも、解説を書いていただいた、藤井さんもそういうことができる稀な書き手のひとりだと思う。


 あと山形さんがおもしろいのは、「ズバリ言うわよ!」的な思考のまとめ方、そしてその表現方法、指摘のするどさだ。それは良識派から見ると言いにくいだろう、不謹慎だろうというところをズケズケと言って、なおかつそれが楽しい。でもそこにある問いはとても細かいし丁寧だ。

 そして、読んでるとウキウキしてくる。なんかできる気になってくるのだ。

 

 ちょっと話がずれるが、私が一番最初お会いした著者は橋本治さんだ。かなり影響を受けた。若いころに簡単に難しいことをおもしろく語ってくれる、そして「自分の頭で考えなされ、できるできる」という人に会ったので、世の中というのは「ベタ」に丁寧に見れば、簡単に私でも見れるんじゃないかという恐れ多い自信をつけてしまったわけである(今思えば本当に恐れ多いのだが)。でも、ある一部分はちゃんとやれば誰も見れると思う。でも、そこからロジックを作り出したり、新しい価値観を作っていく作業が非常に難しい。これがやりたくて、いったん編集の仕事をやめて、マーケの仕事をしていた。斎藤貴男さんが批判している「CRM」(カスタマーリレーションシップマーケティング)をやっている。まあ「顧客戦略」というやつである。何せ「戦略」だ。言葉どおりに解釈すると、お客さんに向けて「戦争」をふっかけるということである。勝たねばならぬ(笑)。おもしろいよ。

 というわけで、2000年くらいは私はIT業界にいて、データベースと格闘してたりしてたんで、ほんとに死ぬほど忙しく、言論界のことはよく知らないのだが、どうも「大きな物語」というのが終わったらしく、価値観が多様化していてアノミーで世の中目標を失っていて、不況で若者が凶暴化して、日本は成熟社会で、そして、性犯罪者が跋扈して、おーイケイケ、ミーガン法だー情報公開だー、格差社会だ、大変だー、オイラは下流だー。ネオリベ退散~!みたいな世の中らしい。

 いやー、本当だったら、そりゃあ大変だ。しかしめちゃくちゃ雑な話である、と思う。・・・・落ち着けって。そんな雑な話をしていて何になるんだろうか、論点にもならんではないか。マーケの分析のほうが余程丁寧にやってますぜ、だんなというかんじだ。

 申し訳ないが、私はそんなことを一度も感じたことはない。感じたことないので、実際にデータを調べてたら、日本の治安なんて全然悪化してないのに、悪化したと信じ込ませたい人がたくさんいた。おもしろすぎる。そういうことを「ホラーハウス社会」はびしびしと書いている。

 あと「ホラーハウス社会」は「解説」が解説になってないという話もよく聞く。解説にするつもりはなかったんで、なってないと思う。「解説」ってつけなきゃよかったなと思う(笑)。藤井さんの自論展開である。でもどうしても入れたかったのは、司法が被害者という新しい人権の概念を取り入れなくてはいけない困難を藤井さんに書いて欲しかったからだ。これは本当に、ものすごく大変なことだ。「パンドラの箱」といわれているくらい難しいことだと思う。

 でも、るえかさんが書いているように、『加害者の人権、被害者の心情、傍観者の恐怖心を、それぞれ必要以上に煽るような言説がその都度燃え上がっては消えたりくすぶったり再び炎が勢いを増したりする。それで均衡が取れるかというとそんなことはなく、ただ、加害者を必要以上に叩き、被害者を傷つけ、偏見を助長し、暮らしづらい世の中にしていくだけだ。』とある。私はこれを伝えたかった。るえかさん、本当にありがとう。暮らしづらいのは嫌なんですわ。


 本当は「当事者意識」というのは、相手からしてみると「大変ですね」としか言われないので、申し訳ないから、あんまり言いたくないんだけど、私は実は被害者遺族になりかけた人間である。相手は少年。いやーそりゃー加害者許しませんと思いましたよ、で、目の前でその加害者の親に土下座された。家族がICUでダースベーダーのようになって(シュコーシュコー)、生死の境を彷徨ってるときだったかな。

 その土下座のときに最初に思ったのは「人に土下座されるって、一生のうち、されることってないなあ。なんか嫌だなあ、土下座されるって」というものだった。被害者の体験を語るという集まりに自分も出たこともあるし、行ったこともある。

 でも正直なところ思ったのは、「そんなに哀しい気持ちを、毎度哀しい気持ちで話せない」ということだ。で、暗いふりをしてないといかん。もちろん、誰もしろとは言ってないが、そういう場では「被害者」というキャラを演技しなくてはいけないという、なんか内から湧き上がってくる、まわりに対するサービス精神のような気持ちである。もちろん「被害者」というキャラが内面化できる人もいると思うし、それがいいとも悪いとも思わない、私ができなかったというだけである。

 私はきっと被害者運動には向かないのだ。こういうこと書くと、どっからか「不謹慎だ」、「あなたは家族が死んだわけじゃないだろう」、「謝罪されたからだ」、「いや現場はけっこう明るいですよ」と言われるかもしれない。言ってくれ。思ったんだからしょうがないでしょう。いろんな人がいると思うが、私もそのいろんな人のひとりだ。そういういろんな気持ちのひとつとして、こういうことがあったということだ。


 で、ちょっと話が飛びます。この本を読んでくれた友達から、GWのバーベキューの話でお電話がかかってきた。その雑談をちょっと掲載させていただく。以下読む人が読めば、かなり不謹慎なのは先に謝っておく。すいません。


友人 「この本はよ、今後、加害者と被害者というまったく違う立場の人が同じルールを作らないといけないってわけだな、難しいなあ。あまりに違い過ぎてイマイチその感じがわからん。なんかわかりやすく例えて言ってよ」

安原 「例えていうと、もっとわからんくなったりするんだけどなー」

友人 「まあ、いいじゃん」

安原 「…はい。法律ってようするに、ゲームのルールじゃん。だからスポーツに例えてみると、まったく違う二つのスポーツをやってる人がいるとするよ」

友人 「どういうの?」

安原 「うーん、例えば、ビーチバレーとスキー。」

友人 「まあ、季節も違うし、個人競技と団体競技だわな。厚着と水着だしな(笑)」

安原 「それがさ、なんかのひょうしにビーチバレーとスキーをいっしょの競技にしなくちゃいけなくなったとするよ。」

友人 「いっしょの!無理でしょう」

安原 「さはさりながら、無理じゃなくさなくてはいけないという状況だとする」

友人 「はいはい。それ、できるの?」

安原 「はあ」

友人 「できないじゃん(笑)」

安原 「ちょっとまって。考えるから」

友人 「うん」

安原 「ゲームのルールを作るほうはよ、両方の人が勝てるメリットを考えないといけないってことだよね」

友人 「うん、わかるよ。例えば?」

安原 「端的にいうと、球技の能力とすべる能力。」

友人 「で、安原だったら、どうするの?」

安原  -----しばし考える-----。

友人 「で?」

安原 「まず、スキー場でバレーネットを貼る。ようするにスキーはいてバレーをする。スキー板を短くする。これでビーチバレーのルールをベースでやる」

友人 「あーそうかー。でも、それだど、スキーやってる人から文句出ない」

安原 「うん。文句出るから、もうひとひねり入れる。ようするにすべる能力を入れればいいから、3セット方式で斜面セットにする。セットごとに場所変えて、で、ボールを軽くして空中の滞空時間を長くする。」

友人 「それ、ちょっとおもしろそうだなー。でもボール軽くすると飛んできそうじゃん。」

安原 「屋外テントにして、風除け作ればいいじゃん。それは何とでもなる話じゃ。今度スキー行ったときにやってみる?」

友人 「水泳とジャンプ競技だったら?」

安原 「うわっ、難しいなあ、一休さんみたいになってきたな(笑)」

友人 「どうするの?」

安原 「えー、ジャンプ台から飛び込むとこが雪面じゃなくて、プールにして、ジャンプしたあとに泳いでタイム数と飛距離計るとか?・・そんなに難しくなかったな。でも誰か死にそうな競技だなあ・・・・。」(なんか「決死の跳躍」だな。何メートル、何秒かもわかるよ、山形さんっ)
友人 「はははー」
友人 「でも、加害者と被害者じゃ、こう、能天気に話はできないよな。」
安原 「まあ、そりゃ~そうだよ。人死んでるんだもん。感情的には無理でしょう。でもなんか同じな気が。今の話だと冷静に聞いてくれるじゃん。」
友人 「ようするに、そういうルール決めができるような話を立場が違う人同志が、まったいらになってやんなきゃねーって話だよな」
安原 「まあ、そういうことだわ」(ほんとか!) 

こういう話をするのは好きである。

ちなみに 『ホラーハウス社会』は決して明るい題材の本ではないことを断っておく。るえかさんも悩む本だと書いてある。うん、みんなで「頭抱えて欲しい」と思った本だもの。

でも著者の芹沢さんも藤井さんも、かなりポジティブなキャラだと思う。