ー鈴鹿さん、本日はこのような機会をくださいまして、本当にありがとうございます!鈴鹿さんの人生についてお伺いをできればと思っています。無茶なお願いを聞いてくださって、心から感謝です。

 

いえ、こちらこそ有難うございます。今日は、石川さんからこれまでの生き方についてお話を頂きたいと伺ったので、ちょっと恥ずかしいのですが、私が普段心がけている事についてお話をしたいと思います。

私は、四国の松山という田舎で生まれたんですが、どうしても小さい時から東京へ来たかったんですよね。何故かというと東京というのは日本の中心で、情報の最先端を行っているところだと思っていたので、私のような田舎で生まれたものがどれくらい東京で出来るのか、という自分を試してみたいなところがあって、大学から東京へ出てきました。それ以来、未だにその気持ちを忘れていないんですけれども、「やらないで後悔するよりは、やって後悔する方が良い」という言葉をずっと心に留めていて、何でもとにかく「自分が出来るかどうかやってみないと分からない、とりあえずやってみようじゃないか」と、どんな事にでもチャレンジするという事をずっと心がけてやってきました。

 

 

ーJSUGで鈴鹿さんが本当に色んな事に挑戦されているのを拝見させて頂いて、いつもすごいと思っています。東京にいらっしゃってから、大変な事たくさんあったと思います。これまでの人生の中でターニングポイントがたくさんおありだったと思うんですけれど、そちらをお伺いしても宜しいでしょうか?

 

人生のターニングポイントって誰にでもいくつかあると思います。

 

私にとって最初のターニングポイントは、高校まで松山にいて、東京の大学に入ってからの衝撃ですね。私は、松山の中学高校の一貫校に通うことになり、当時は自宅が新居浜にあったので、6年間自宅を離れて親戚の家から通っていたんです。高校までの私は、本当に一人が好きで、人と話をする事が苦手だったんですよ。休みの日はだいたい、受験勉強をするか、家で小説を読んだりとかでしたね。結構文学が好きで、自分で小説を書いたりもしてました。人とのコミュニケーションが非常に下手だったんですよね。それが、東京に来て大学に入ると、日本全国から人が集まっている訳です。秋田の横手から来た方がいて同じクラスで隣になって話をしたんですが、全く言葉が通じない。何を言ってるのかさっぱり分からないんですよ。お互いに標準語じゃない訳ですよね。日本の広さを改めて感じて、言葉が通じない人がいるというのは衝撃だったですね。それで、興味があった劇団に入りました。この劇団も、いろんな地方から来た人がいたのですが、そこでみんなで協力をして(授業をさぼって)汗水たらして一つのものを作り上げる。演劇というものは一晩公演すると翌日には壊しちゃうんですけれど、そういう消えて無くなるものをみんなで力を合わせて作り上げるということに本当に意義を感じた、喜びを感じたという、これがまず私の一つ目のターニングポイントですね。

それからは、仲間でやらなければ、自分ひとりでやれることはたかが知れてると。仲間を作って、仲間と一緒にやる大事さというものをそこで教えられた、学んだ、これが第一ですね。

 

 

その後、日本航空に入って6年目に、御巣鷹山のジャンボ機の事故がありました。私の人生において一番のターニングポイントは、この御巣鷹山の事故です。これは殆どの方が経験しない事なのですが、自分たちの会社で事業をやっている中で誰かがミスをした訳では無いけど520人の命を奪ってしまったと。これはすごい衝撃で、実は私、担当が機体の構造だったので、事故の一週間後から1ケ月くらい御巣鷹山に行ってるんです。山から下りてきてからは、2ケ月間毎日群馬県警の警部補に取り調べのようなものを受けて、調書を相当取られました。群馬県警には”人殺し!“と言われ、遺族の皆様に対してお話も出来なかったんですけれども、あれはやっぱり一番大きかったです。事故後は、いろんな意味で、自分が今までやってきた事は本当に正しい道だったのかという事を振り返らざるを得ませんでした。人の生死に直接関係する仕事をしているんだという事で、改めて自分の仕事を振り返り、これは本当にいい加減な事は出来ない、と。安全というのは一番人間にとって大事なのだという事を痛切に思いました。その後の私の会社人生もそうですし、家庭での生活もみんなそうですけれども、ここってところでは絶対に手を抜いてはいけない、という事を改めて感じた体験でした。

 

 

その後、シアトルに4年ほど住みまして、その時に子供が産まれたり、色々な苦労はありましたが、その次の3つ目のターニングポイントは、私の会社の経営破綻です。ある日突然会社が破綻する訳です。それまでうちの会社が経営破綻するなんて全然思ってなかったんです。恐らく社員の多くもまさか破綻するとは思ってなかった。でも、破綻をしてしまう。その時に何が起こるかって、誰にも想像も出来ない。飛行機は飛べるんだろうか。我々は、明日からどうすればいいんだろう、という恐怖が襲ってきて、これまで自分たちがやってきた事が全否定されるんですね。やって来た事が悪かったから、経営破綻する訳であって。私はずっと整備一色でしたから、毎日整備の事を考えて、いかに安全に飛行機を飛ばすかという事を考えて仕事してきた訳です。それで本当に良かったのかっていう、本当にゼロから見直しをさせられました。その時に、管財人という方たちがやって来られて再生計画を作る訳です。その再生計画を実現しなければ、会社は再生しませんよということなのです。その再生計画の中で、当時整備は6,000人くらいいたのですが、1,700人減らしなさいと言われ、私は辞める立場ではなくて辞めていただく立場になってしまったんです。公平性を考えて、ある年齢以上の方に辞めていただくということにしたのですが、「申し訳ないのですが、あなたの仕事はもうありません。なので、早期退職にサインしてください。」と、全国の支店を行脚して回るわけです。辞めていただくのは、みんな私の大先輩で、「鈴鹿君が入社したときは一緒に仕事をしたよねえ。」なんて言われると、涙が止まらなかったですね。これが数ヶ月続くのですが、この時も、我々にとって仕事って何だろうと、生活をするってどういう事なんだろう、家族を支えるってどういう事なんだろうとすごく考えさせられた。当時は、電車を待つとき、ホームの一番前には絶対並べなかったです。これが3つ目のターニングポイントですね。

 

 

で、今は、常勤監査役という立場にいるのですが、4つ目のターニングポイントはやはりJSUGと関わった事ですね。さっき申し上げたように、うちの会社が事故を経験し、経営破綻した、でも今の日本航空があるのは、いろんな人の助けがあったからなんです。経営破綻した時にいろんな人達が手を差し伸べてくれて、飛行機に乗ってくれたからこそ、今の日本航空があるという気持ちがあるものですから、どこかで“鶴の恩返し”ではないのですが、世間の皆様に貢献したいという気持ちがずっとあるんです。なかなかそれを実現する場がなかったんですが、JSUGから声をかけて頂いて、「あ、これだ」と。JSUGの活動を通じて、できるだけ日本の多くの皆様、かつて日本航空を助けていただいた皆様に少しでもお役に立てれば、私としての最後のお勤めかなという感じがしています。それで、ここも、できるだけ頑張ってみようと。どこまで僕にできるか分からないけれども、できるだけ多くの事をやって、できるだけ多くの人達に、「JSUGで少し助けられた」というような気持ちになって頂ければ、それで僕としてはいいかなと思ってやってるんです。これが4つ目ですね。

 

 

ー実は社員編トップバッターの蔡本さん(後日公開)は彼女の臓器移植の話をしてくださいました。

 

飛行機と臓器移植で思い出しました。

私は、長年技術関係にいたのですが、飛行機の構造と客室が専門です。御巣鷹山事故のときは、原因であった後部圧力隔壁の担当の一人だったので、まるで自分が520名の命を奪ってしまったような気がしていたんですよね。その後、1995年から2000年まで、技術部の客室技術課の課長をしていました。ちょうど心臓移植をアメリカでやることが始まった頃です。「何々ちゃんを救う会」みたいなボランティアの団体が寄付を募って、集まったお金でアメリカに行くというのが始まった頃です。ある日、人工心臓の子供をアメリカに運んで心臓移植をしたいという要望が日本航空に来ました。まだ日本では、人工心臓を飛行機に載せるなんて、誰もやったことがなくて、会社でも受けるかどうか議論になりました。もし、飛行中に不測の事態が起こって子供に何かあったら、日本航空の責任になりますからね。でも私は、520名の命を奪ったのだから、ここで命を救わなくてどうするんですか!と主張して、お受けすることにしました。飛行機を改造して、人工心臓や様々な医療器具の配線をして、特別なベッドを装着して、ドクターやナースや親御さんの席を確保して、全体をカーテンで囲うこともしました。こういうことをやるのが客室技術なのです。私と担当者とで、何度もドクターと打ち合わせをしてあらゆる準備をして、なんとか日本で初めての人工心臓の子供の輸送に成功しました。その後、無事に移植手術が行われたそうです。その後も、年に数回くらい、心臓移植の子供を運びました。全日空では出来なくて、日本では僕たちのグループしか出来ないことだったんです。1歳か2歳くらいの子供が多かったような気がします。一番嬉しかったことは、移植手術が終わった後、お母さんから直接お礼状が何通も来たことです。日本航空のお陰で息子の命が助かりました、というお手紙には泣けました。中には、手術はしたのだけれど、亡くなったケースもありましたが、お母さんからお手紙が来るんですよね。皆さんのお力でアメリカで手術を受けることができました。息子も天国で喜んでいると思いますと書いてありました。

もう20年も昔の話です。今では、日本でもかなりの移植手術が出来るようになったので、わざわざアメリカまで行くケースは少なくなったかもしれませんね。

 

 

ー涙が出ます。そんな数々の経験を経てのJSUGなのですね。

 

僕は、JSUGが楽しくてしようがないんです。JSUGの人達と話をすると本当に楽しくなります。そこで新しい発見もいっぱいある訳です。あ、こういうところで頑張っていらっしゃる方がいる、と。こんなところでも、こういうところでもっていう、毎日新しい発見ができて、新しい人とお会いできるじゃないですか。そういう人と出会えるという事もすごく楽しいし、頑張っている人達を見ると、やはり自分も勇気付けられるし、力をもらえるし。そういう場にしたいんですよね、JSUGを。

 

 

ーJSGUは年々、元気になっていますよね。

 

最近何年ぶりかに会う人達がいっぱいいるのですが、10年振りにあった人に「鈴鹿って全然年取ってないね」って言われて驚いたことがありました(笑)

 

 

ー鈴鹿さんも年々益々お元気になってらっしゃいますよね。とても内気な少年だったとは思えないです。

 

そう、内気な少年だったんです。人と普通に話せるようになったのは、大学に入って劇団やってからですね。人間って変われるものですね。不思議なものです。人間は、自分で変わろうと思ってもなかなか変われない、それだけだと変われないと思うんです。自分が変わろうと思って、尚且つ周りからの力を頂いて初めて変われるんだということをすごく思いますね。

 

 

(”②JSUGとSAPプロジェクト”に続く)