七宝の起源は、紀元前エジプトに始まるといわれています。有名なツタンカーメンの黄金のマスクの髭の部分に七宝が施されています。その技術は大陸、中国、韓国をへて日本に伝えられました。


日本にある最も古い七宝は奈良県の牽牛子塚古墳から出土した七宝座金具で、次いで正倉院御物の黄金瑠璃鈿背十二稜鏡があります。しかしこれらの伝世品は日本で作られた確証がありません。


その後桃山時代になり琳派の華やかな文化と呼応し、聚楽第の飾金具等日本で作られた七宝が見られるようになりました。


ここで京都を中心とした七宝の、第一隆盛期を迎えます。京七宝は京都の金工師であった嘉長や平田道仁に代表される京の金工職人達が大陸からその技術を学び始まったと考えられます。


桂離宮、曼殊院の襖の引手や釘隠し金具等、また本願寺黒書院やその他京都の寺には、あちこちに七宝の引き手等が今も残っています。桃山時代から江戸期にかけて金工職人達の手により、そうした技術がめんめんと伝えられて来たことがわかります。


幕末から明治にかけて、第二の七宝隆盛期がありました。ドイツ人の化学者ワグネルが1867年来日し透明釉薬を開発することにより近代七宝へと変革しました。


京都府はワグネルを招き舎密局を設立し、また陶工尾崎九兵衛、並河靖之、稲葉七穂等が技術の向上と製作に尽くし、並河靖之は東京の涛川惣助と共に明治の二大七宝家といわれました。


こうした人々の努力により当時京都には、多くの職人を抱えた七宝の工場が何軒もあり、輸出に盛況をきわめていました。


昭和、平成と移行し、住居や生活環境もかわりましたが、伝統工芸である京七宝を先人から託され、その技術を伝えつつ、新しい今に生きる七宝が創られています。


なお、「京七宝」は特許庁の商標原簿に登録された、京七宝協同組合の地域団体商標です。