「論語と算盤」(渋沢栄一) ようやく企業が渋沢に追いついてきたのかな | 「晴走雨読」 廣丸豪の読書日記

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廣丸豪(ひろまる・ごう)と言います。日々の読書生活や、気に入った本の感想などを気ままに綴ります。

論語と算盤

 

道徳と経営は合一すべきである。日本実業界の父、渋沢栄一が、後進の企業家を育成するために、経営哲学を語った談話録。論語の精神に基づいた道義に則った商売をし、儲けた利益は、みなの幸せのために使う。維新以来、日本に世界と比肩できる近代の実業界を育てあげた渋沢の成功の秘訣は、論語にあった。

企業モラルが問われる今、経営と社会貢献の均衡を問い直す不滅のバイブルというべき必読の名著。

(「BOOK」データベースより)

 

キリスト教を禁教とし朱子学を国学とした江戸幕府は、商業を蔑視し、町人には課税もしなかったため、経済的に困窮した。一方の商人は、自分の家業を律するための家訓はあっても、モラルや公共心とは無縁だった。

儒教に染まった国は商業を蔑視し、経済的発展から取り残される。私は、江戸幕府の衰退の大きな要因の一つが商業の蔑視と貨幣経済への転換の遅れであり、その原因が朱子学(儒教)と考えている。

栄一は寛政の改革の松平定信をこの本の中で英邁としていたが、頭脳明晰なエリートが視野狭窄に陥り、大局を誤るのは、大東亜戦争当時の軍部も同様である。

 

明治の世になっても、藩閥政府の下、商業を取り巻く環境はあまり変わらなかったようだ。

理念や公共心が根付かない商人が私利私欲をもっぱらとし、官僚となった元武士の商業蔑視は払しょくされず、むしろ自らも汚職に走っていたのがこの時代の実態だったのだろう。

著者は儒教は商業を否定していないとして、商道徳や今でいう企業理念の確立のために、当時の日本人が一番親しんでいたであろう論語を引き合いに出した。それが真実かどうか、孔子が商業をどう思っていたかはともかく、栄一の主張する「道徳と経営の合一」は、殖産振興政策のバックボーンとして必要不可欠である。

 

私は一橋大学を卒業したが、その前身である東京商業学校を創設したのも渋沢栄一である。当時、商業は学問とされておらず、帝大では商業を教えなかった。(今でも、東大には経済学部はあっても商学部はない)。

この本でも、繰り返し商道徳の確立のための基礎教育の必要性が語られており、著者の慧眼とその行動力に感銘を受けた。

 

筋から外れるが、西郷隆盛の話がエピソードとして面白かった。

西郷がわざわざ当時大蔵省の役人だった栄一の自宅に訪れ、「二宮尊徳が旧相馬藩に導入した興国安民法は、国の財政改革を行うに当たっても廃止してくれるな」と申し入れたという。栄一が興国安民法についてご承知かと問うと、知らないと言う。栄一は同法について詳しく説明した上で、「いやしくも一国を双肩に荷われて、国政料理の大任に当らるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末転倒の甚だしきものである」と西郷の不見識を批判、西郷は黙って帰ったという。

藩閥政府の意識レベルの実態と、西郷の器の大きさを示すエピソードである。

 

企業が、その企業理念を、HP等で公にし、社員にも周知徹底を図るようになったのは、ここ20年である。日本も、ようやく栄一の望む世の中になったかな。