先生が夫に病状の説明を始めると

「自分でなく家内に話してくれ」

 と言ったそうです。

 

夫は少し耳が遠い。

マスク越しに話されても聞こえづらかったのか。

それとも

病状を聞くのが怖かったのか……

 

ビビりな(繊細)ところもあったので

たぶんその両方だと思います。

 

夫に病状は

話さないでほしいとお願いしました。

今は本人に伝えるのが当たり前。

でも

知って絶望するより

知らなくて前向きになれるなら…

 

入院した時

退院しても酸素ボンベの生活になるんなら

死んだほうがましだ。

とつぶやいていました。

わたしの知ってる限り

弱音を吐いたのはその一回だけ。

 

死にたくない。生きていたい。

そう思ったからこそ

弱音を吐かずに治療に臨んでいたんだと思います

 

先生からも

「○○さんは頑張り屋さんだね」

とほめていただきました。

 

 

 

 

 ~入院を振り返って~

 

 入院して4日間は

 病院食は完食。

 トイレも歩いて行けてました。

 ホントにそんなに悪いのかなと思ったほど

 元気でした。

 

 

 5日目から息が上がって歩くのが辛くなり

 ベッド横にポータブルトイレを置いてもらいました。

 食事を残すことが多くなり

 ゼリーやプリンを好んで食べてました。

 

 面会時間は14時から17時。

 毎日その時間いっぱい付き添っていました。

 

 ある日

 帰ろうとするわたしに夫は

 

 「もっと長くいてほしい」

 

 先生に許可をもらい

 お昼から夕食が終わるまで付き添うことになりました。

 

 

 2週間過ぎたころ

 食欲もなくなり

 カテーテルでの栄養点滴になりました。

 

 ガリガリ君ソーダが食べたいと

 突然言い出し

 病院のコンビニで買ってきて

 少し溶かしつぶして食べさせたら

 気に入ったらしく

 毎日ガリガリ君のリクエスト。

 

 

 ステロイド治療の効果もなく悪化する一方でした。

 起き上がることもできずオムツになりました。

 

 

 年が明けて…

 

 毎年楽しみに見ていた駅伝も興味を示さず

 テレビも全く見なくなりました。

 

 

 ネーザルハイフロー(鼻につけるチューブ)から

 酸素マスクに変わり

 話すこともできなくなってきました。

 

 

 先生から

 「そろそろモルヒネを使う段階にきている」

 「簡易ベッド用意するから奥さん泊まることもできるよ」

 

 翌日から泊まることにしました。

 

 苦しがって体を動かすたびに酸素濃度が下がり

 アラームがひっきりなしに鳴り響き

 まったく寝られませんでした。

 

 わたしがステージ4のがん患者だとは

 誰にも話してませんでしたが

 先生も看護師さんたちも

 わたしの体も気遣ってくれるようになりました。

 

 気が張ってたのか不思議と疲れを感じませんでした。

 

 

 モルヒネを投与するようになってからは

 苦しがることもなく静かに寝ていました。

 

 

1月8日朝

 血圧が徐々に下がってきました。

 

 子どもたちに連絡。

 

 二女、息子が到着。

 

 長女は遠いので間に合わないかと

 ハラハラしましたが

 高速を走ること2時間

 お昼過ぎに到着しました。

 

 

 看護師さん

 「こちらの声は聞こえてるはずだから話しかけてあげてね」

 

  みんなで必死に呼びかけました。

 

 「お父さん お父さん」

 

 一瞬目が開きました。

 

 

 2024年1月8日 午後1時18分

   静かに息を引き取りました。

 

 

 

 ~延命治療のこと~

 

 先生にはあの時

 翌日返事をするといいましたが

 返事をしたのはもう少し先でした。

 

 看護師さんからは何度か催促されましたが…

 

 こどもたちとも話し合いましたが

 そう簡単に決められることではありませんでした。

 

 自分のことならすぐ決められる。

 延命治療はしないと。

 

 鎮静剤で眠らされ

 気管挿管後、気管切開。

 意識もない状態で生かされている。

 

 それでも奇跡を信じて

 ひたすら待ち続けるほうががいいのか…

 

 

 悩み苦しんで結論を出しました。

 

 

 今わたしは

 生きる支えを失って

 喪失感から抜け出せません。