2月20日(土)に実施した、ひろしま通メンバーのためのイベント、宇品歴史探訪についてご報告します。
 旧国鉄宇品駅跡を後した私たちは、海岸通り駅から路面電車に乗って、県病院前駅に移動しました。そして、近くにある千田廟公園(せんだびょうこうえん)にやってきました。この公園には、宇品築港の功労者である千田貞暁(せんださだあき)県令(県知事)の功績を顕彰して、宇品新開地記念碑、千田貞暁の銅像、千田廟社などがあります。

宇品新開地記念碑

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千田貞暁の銅像

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千田廟社

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宇品築港と千田貞暁
 宇品港は、当時の広島県令千田貞暁の尽力により、明治17(1884)年に広島県営の港として着工し、多くの多難を乗り越え、5年の歳月をかけて明治22(1889)年に完成した。
千田貞暁は、明治13(1880)年東京から海路赴任した。宇品島の沖合いから小船に乗り換えて、船着場(現在の皆実町)を目指したが浅瀬に乗り上げ、遠浅を歩いて上陸したという。県内を巡視すると道路は悪く、物資は停滞していた。当時まだ鉄道はなかった。広島の産業の発展のためには、道路と港湾の整備を痛感した。そこで、「宇品港」と「宇品新開」(埋め立て)を決断した。港と新開地の築造で18万円余りかかるが、県の予算はない。できるだけ低い工事費と費用捻出に苦悩した。
工事が始まっても順調には進まなかった。干拓によって漁場や牡蠣の養殖場など生計の場を失う地元住民の反対運動が起こった他、干満の大きな水位差で、潮止め部分や築堤が二度も決壊した難工事だった。さらに台風や悪天候でも大きな被害を受けた。これらの要因などで、当初の費用を大幅に上回り30万円と工期5年3ヶ月を要した。費用のうち14万円は私財を投じた。多大な国費を費やした罰として、明治24(1891)年4月の竣工式を待たずして、広島県令を更迭され広島を去ることになった。
  宇品の開拓に莫大な国費を費やしたとして当時広島県知事を更迭された千田貞暁でしたが、その後、宇品港が大きな発展を遂げてたことにより、再び評価され男爵に昇進したそうです。千田貞暁の名前は、現在の広島市中区の「千田町(せんだまち)」の名の由来になっています。


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