岐阜県瑞浪市の中学2年生の女子が「いじめ」を苦に
自ら命を絶った。
この事件についての学校側の対応が「またか」という
内容で憤りとか怒りとかの感情を通り越して、あきれと
いう感情がこみあげてきた。
なぜ学校はいじめがあることを認めようとしないのか?
現場の先生がいじめを報告しても、校長は「もみ消し」
に動く。
それは教育委員会への「昇進」の道が絶たれるからだ。
学校長を最後に教職を引退するかと思いきや、学校長を
ステップにして、教育委員会の要職につくことを視野に
入れている人たちも多くいる。
自分が校長を務めている時期に「生徒のいじめ自殺」が
起これば、「傷」が付く。
傷が付くと自らの昇進の道が閉ざされる。
「いじめはなかったと信じたい」
と語った今回の瑞浪市の校長さんは、自殺するまで傷ついた
生徒の「心の傷」よりも「校長としての評価に傷」がつくこと
が相当嫌なんだろう。
「今そこにあることを、ただ見つめること」
そうすることで、見えてくるのではないか?
いじめがあることを認め、どうすればそれを解決していける
のか?
という単純な思考ができるはずが・・・
「いじめなんかありません。」
「いじめはあったようですが、それが直接自殺の原因とは断定
できません」
「いじめはなかったと信じたい」
というスタートに立つと、
「どうやったら、生徒自殺の原因をいじめ以外に転嫁できるか?」
という、本質のずれた方向に思考が進むことに気付いていない。
思考がずれるということは、行動もずれる。
学校が当事者ではなく、「他人事」のようにいじめ問題に
取り組む(取り組んでいるように見せている)のは、「いじめが
起こるとイメージが悪くなる」という先入観がそうさせているの
だと思う。
ではその先入観はどこからくるのか?
それは・・・
「いじめは悪いこと」
だという先入観だ。
そんなことを言うと、
「お前はいじめを肯定するのか!」
「被害者、さらにはその家族の感情を逆撫でする気か!」
と怒鳴られそうだが、そうではない。
間違いなく、
「いじめは悪いこと」
である。
ただこれを固定観念化してしまっていると、いざいじめが
起きた時に
「いじめは悪いことだから、バレたら
イメージが悪くなる」
とネガティブロジックにはまり込む。
そうではなく、
「いじめは悪いことではあるが、その
問題に取り組むことは悪いことではない」
こうして一度、考え直してみてはどうか?
教育委員会が学校長評価の中にいじめの有無の項目を
入れているのであれば、そうでなく「いじめの問題にどう取り組んで
きたか」という形にすれば、学校長の「いじめはなかったと信じたい」
という、今回のような発言もなかったのではないか?
「学校には常にいじめが存在する」
「学校ではいじめが起こる可能性がある」
そこからスタートして、いじめ自殺を未然に防ぐ方法を模索
していくしかない。
いじめ自殺をした生徒の命はもう帰らない。
ただ、それを無にしないためにも私は真摯にこの問題に
向き合って生きたい。
博薫堂
- 輝ける子―100メートルを10秒で走れと言われてもさ、いっくら努力しても走れない奴っているじゃん/明橋 大二
- ¥1,260
- Amazon.co.jp
- いじめ14歳のMessage/林 慧樹
- ¥998
- Amazon.co.jp
- 生きることと自己肯定感/高垣 忠一郎
- ¥1,575
- Amazon.co.jp