4月から日曜朝に移り、新キャラをバンバン出して路線変更を図っている新作ヤッターマン。まず第37話では第35話に登場したドクボンと第36話に登場したネエトンを軸に物語を展開させておりました。つづく第38話ではドクボンとネエトンは物語の軸から外し、これまた新キャラのドクロリングハンターの二人を軸に物語を展開させておりました。次回はこれまた新メカのヤッターモグラが登場するそうです。これを受けて「3悪ドットコム」の「新ヤッターマン専用コーナー 」ではべた褒めで、第38話についてはこのように書いております。


今週も面白かったのですが、だんだんとヤッターマンとしての面白さではなく、ボカンシリーズとしての面白さにシフトしているように感じられます。他のシリーズで使われた演出やギャグが増えたことで、ヤッターマンのフォーマットから完全に離れつつあり、今後どういう方向にストーリーが展開するのか全く想像がつきません。若干心配になってきました。


というわけで感想です。時間移動後からゼンダマンっぽい内容が増えているように感じていたのですが、今回はそれが顕著に感じられました。ゴンドラーンがゼンダマン第42話に登場した『オーソレミオ』に似ていたり(オーソレミオが向かった先は1500年のベネチアで、この点でも共通点があります)、ドクロリングハンターが人文字をやったり、片方がペンシングみたいな武器(フェンシング)を使ったり、ドロンボーメカが変形して二足歩行メカに変わったりと、ゼンダマン化がますます進行しています。おまけに来週は、モグラ型の新ヤッターメカが登場するとのことで、本当にどうなってしまうんでしょうか……。それ以外にも、ドクロリングハンターが怪盗きらめきマンチックなデザインだったり、ゴンドラネーコがトッタルニャンそっくりの動き方をしたりと、怪盗きらめきマンの要素も加わりつつあるように感じます。


上を要約すると次の通りになります。

・新作ヤッターマンは旧作のヤッターマンというよりはタイムボカンシリーズのテイストを目指す方向にシフトしているようだ。

・第38話はゼンダマンのような感じだった。また「怪盗きらめきマン」の要素も入っているようだ。

・タイムボカンシリーズの要素がふんだんに入っているから面白い。

しかし、このような方向性が成功していると言えるのでしょうか?


私が4月に入ってからの話を見て感じたのは、レギュラーが多くなり過ぎて収拾がつかなくなりつつある、ということです。第37話ではドクボンとネエトンがさっさとヒマラヤへ行ってしまったために、ドロンボーはほとんど出てこず、冒頭と後半の戦闘シーンに出てきただけ。第38話ではこれまた新キャラのドクロリングハンターとかいう気障な連中が動き回ったためにこれまたドロンボーの影が薄くなってしまいました。レギュラーが多くなってしまったため、どうしても誰かの出番を減らさざるを得なくなってしまったのです。新作ヤッターマンのスタッフはヤッターマンとドロンボーしかレギュラーがいなかった時でさえ時間を無駄遣いしてクダクダな話しか展開できなかったのですから、レギュラーを増やしてまともなドラマを描けるはずがありません。大体、ゼンダマンの時だって、レギュラーはメカを除くとゼンダマンの2人、アクダマンの3人、アマッタン、実は黒幕だった猫のニャラボルタ、紋者博士しかいなかったのです。旧作ヤッターマンの時から一人増えていますが、実質的に紋者博士は冒頭にしか登場しないので、結局は誤差のようなものだと言いきっていいでしょう。実質的には変わりがないと言ってもいいでしょう。ところが新作ヤッターマンではレギュラーが4人も増えてしまったのです。ドタバタ喜劇を強調させるためにレギュラーを増やしたのでしょうが…高橋ナツコと武上純希などにはまともに運用はできないでしょう。


大体、喜劇というのは描くのが難しいのです。ギャグ一つとってみても、ただ入れればいいってものではありません。これについては私がよく訪れるブログ「光の国から愛をこめて 」の“『光の国から子ども達へ』さいとうひとし氏作『飛び出せ!宙マン 番外編』 ”に興味深い文章が書かれておりますので、引用します。


例えば筆者は、ギャグ作品というものに対する畏怖があるのです。
ギャグは簡単に作れそうだし、重いテーマもいらないので容易に生み出せそうなそんな錯覚を人は持ってしまいますが、実はギャグほど難しい表現はないのです。
かの富野由悠季監督も、かつてフリー監督時代に『いなかっぺ大将(70年)』の演出を依頼されたとき「ふんどしを出してればいいんだから低レベルな仕事だろうな」と思って現場に赴いてみたら「最後にふんどしを出すギャグ一つとっても、そこでしっかりと流れを作らなければならず
ただふんどしを出しただけでは、子どもは笑ってはくれないのだということを勉強した」
と後に語っているように、実はギャグや笑いはニュアンスや勢いだけで作れるものではなく重たいテーマを深刻に語る作品以上に、しっかりとした計算と基礎と、センスが問われるのです。


残念ながら私は冨野さんの言葉の出典を知りませんのでまた聞きの形でしか引用できませんが、如何にも冨野さんの言いそうな言葉だと思います。冨野さんは就職活動する時に元々映画を作りたくて映画会社を回ったのですが果たせず、仕方なく虫プロダクションに入ってアニメの道へ進んだと言う過去があります。だから彼の作る作品にはそれまでのアニメ作品にはない作家性を感じるのでしょう。その冨野さんでさえ、定番ギャグの表現には苦労させられたのです。安直にレギュラーを増やしてドタバタを強調して面白くなるようなものではないのです。話を書いたり演出したりする人のセンスが問われるものなのです。


それにギャグというのは作り手の方が「どうだ、俺様のギャグは面白いだろう!」という思いあがった姿勢を持っていると必ずすべて失敗します。先月約28年の歴史にピリオドを打ったコサキンでは、かつて関根勤が替え歌を歌うコーナーがありました。もう終了すると言うことで先月はその替え歌が何曲か流されたのですが、それを聞いて小堺一機が言っていました。


くだらな過ぎて笑っちゃうんですけど、あの、他人に対して面白いでしょと思ってやっていないからいいんですよ。(ここでアタック隊の人達が笑う)他人に対して面白いでしょってやると、テレビでやっている滑るって状態になって、みんなが「なんだよ」って思うけど、自分が楽しそうだから、ラビー(関根のこと)自身が楽しいと思ってやっていることをみせてもらっているから、笑えるんですよ。これ、ネタですって言って「ンーボ」ってやられたら、悲惨でかわいそうになっちゃうけど、本人が嬉しそうなんですよ。


実際、この日(2009年3月21日深夜)に放送された替え歌「イヤラシー」(原曲は井上用水の「ジェラシー」)、「ラブレター・フロム・インド」(原曲は平尾正晃が歌った「カナダからの手紙」)、「林与一は自然食志向」(原曲はなぎら健一の「一本でもニンジン」)、「サウンド・オブ・うるさい」(原曲はサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」)はあまりにも酷過ぎて小堺が笑いながら「歌じゃねえじゃん」「替え歌じゃないじゃん」とか言うような代物ですが、あまりにも関根が楽しそうに馬鹿なことをやっているので思わず笑ってしまいます。演じ手が楽しそうにやっていなかったり、上から目線で「どうだ、面白いだろう!」とかいう姿勢でやっていたら、あまりにも寒くて笑えなかったでしょう。


今の新作ヤッターマンはやっつけ仕事で旧作のギャグを「なぞって」上から目線で「どうだ、面白いだろう!」と視聴者を馬鹿にした姿勢でやっているから面白くないのです。こんなものを見て、タイムボカンシリーズの要素がたくさんあるから面白い、というのは私の感覚には合いません。


最後に、「からくち兄目ブログ 」の「新ヤッターマンvs少年突破バシン 第3ラウンド 」で兄さんが書いた最後の文章をお目にかけましょう。


来週は、モグラが登場。商売っ気を前面に押し出して勝舞だ。


思わず笑ってしまいました。「ゼンダモグラみたいだ」とかいう表層的なことを言う前に、こういう本質をついた感想を述べてもらいたいものです。ヤッターキングが登場せずにヤッタージンベエが登場したのも、これが狙いでしょう。こんな情けないものを見抜けずに支持するから、こんな駄作が闊歩するのです。駄作にはノーというのが、本当のファンだと思います。


あと、似たような話は連続テレビ小説「つばさ」にも言えると思います。このドラマは「寺内貫太郎一家」を意識して作られているようですが、残念ながら、まだ遠く及びません。ギャグの入れ方が中途半端なので、いまいち感情移入できないのです。戸田山雅司は向田邦子にはなれなかったようですし、後藤高久は久世光彦にはなれなかったようです。もっともっと弾けた作りをしないとダメでしょう。ただ、月島を舞台にした作品のような駄作にはまだなっていないと思います。あれはドラマとしては穴があり過ぎて論外の出来でした。しかも、「どうだ、面白いだろう!」という姿勢が見え見えで滑りまくっていました。あそこまで酷い出来にはなっていないとは思います。