実は今日、三回目の塞栓術をしました~
今はもう回復して、この通りパソコンの前で飛び跳ねています。
まあ、明日の夜とかから熱が出るんだろうな~
と、思いながら束の間の「元気」をめいいっぱい楽しんでいます!

え?
前回からまだ二週間しか経っていないけど、
医学の教科書では塞栓術は三ヶ月あけなきゃいけないって書いているよ?!

と、思う方もいるのかもしれません。
ふむふむ。

そ、題の通りの「教科書通り」についてちょっと思ったことを書きま~す。



ちょっと話が逸れてしまいますが…
実は一昔前まで、私は「教科書通り」が大好きだったんです。


小さい頃(中国にいた頃、7、8歳くらい)
お描き教室に通って居た時がありました。
習い事です。

その描き教室で、なぜかずっと自転車の書き方を教わって、でもそれ以外はまだ何も書き方をおそわていなかった頃の話です。

絵描き教室に通って、自転車の描き方だけは先生の教えの通りに(教科書通りに)完璧な仕上がりになった頃に、
誰でも出れる絵画のコンクールになぜか参加することになり、コンクール会場で決められた時間内に決められたお題で絵を描くという大会でした。

題は今でも曖昧に覚えています⇦
確か…
「学校」という題でした。

周りの人を見ると、みんな思い思いの「学校」について早速書き始めたのですが…
私は一向に筆が進みません。
なぜなら、まだ「自転車」の描き方しか教わっていないからです。

教科書通りの私は、教わったこと以外は出来なかったのです。
それでも一生懸命白紙の上に
なぜか自転車を書き始めました。
その自転車をどうにか題の「学校」に近づけようと
模索したのですが…
大変な「傑作」になった覚えがあります。
(具体的にどうなったのか、ひどすぎて言いたくありません。。。恥ずかしいです)

それは私にとって
「教科書通り」で行ってみると、大変な目にあった最初の出来事でした。

今から考えてみると
多分絵画の先生は自転車の描き方を通して
基礎的な丸とか直線とか、大きさの距離感とかの基礎を教えたかったのではなかったのかな?って勝手に理論付けています。(きっと、そういう意図だったと思う!)



教科書通り、マニュアル通りってもちろん悪い事ではありません。
何かの目的や意図があって、その教科書・マニュアルを作ったのですから。(わかりやすく説明するためとか、作業がはかどるためとか…)
その通りに行けば、得られるものはたくさんあるでしょう!

でも、教科書通りが必ずしも絶対の正解じゃないと
改めて今日感じました。
(その理由は後ほど判明します~)

昔の私は教科書に忠実でした。
でも、もっと大きな、もっと大切なことに全く気がつきませんでした。

それは、その教科書を作った目的や意図、
またはその教科書の中身はどうしてそんな風に書いているのか。

教科書は往々として結果だけを載せる場合も少なくはないと思います。
わかりやすくするために、『こうしたら、こうなりますよ~』と。
または効率を図るために、一番良いとされる方法だけを乗せたりする『Aは〇〇した後にB
します』などのように。

今回の塞栓術も教科書だと
三ヶ月間を空けないといけないと書かれているそうです。
しかし、それはなぜか。
どうして三ヶ月あけなきゃいけないのか!?

それは、肝臓の機能を守る為!
という目的があるからなんです。

一般的な塞栓術は普通の外科手術に比べると
体に対してダメージは少ないのですが
それでも肝臓に一定なダメージを与える場合が多いのです。(言葉いっぱい濁してごめんなさい。)

私の場合、二週間前に塞栓術をしたばかりなのですが
肝臓の機能はいたって悪くないのです!!!
(個人的に、いつも通り元気すぎるほどなので、体感でいうと肝臓の数値は100点満点です。てへ)

そして、様々な要因があり
第三回目の塞栓術をすることになったのです!


「教科書通り」
も、もちろんダメなわけではないのですが…

それだけに縛られずに
その裏にある「本当の」「真の」目的や意図に少しでも目を向けてみたり考えてみたりすると、結構楽しいものです。
言われたことをそのままするのではなく、少しでも考えてみる。
何が本当に大切なものなのか、何が自分にとって一番いいのかを考える力。

アフラックのCMでも言っている通りに
「私はがんになって、いい子をやめました」と。
「教科書通り」の「いい子」をやめました。
そうではなく、自分自身にとって何がいいのか、自分らしく生きることについて考え、悩み、悩み、悩み、悩み…
教科書通りではきっと見つからなかったであろう
たった一通の「自分」について。

「いっぱい笑って、いっぱい泣いて、いっぱい楽しもうと思います!」




ちなみに、描き教室はそれきり行っていません(笑)