忙しくしていたらあっという間に1ケ月たってしまいました。今日は、新規事業がなぜ上手く行かないかについての2回目、組織能力の強化策不足ということを書いてみようと思います。前回、戦略の考え方として資源アプローチという考え方さえ知られていないと書きましたが、先日、本屋にいってみてそれもやむを得ないことだと思いました。何しろ、資源アプローチについて紹介している本がまずあまりないこと、また、資源アプローチについて触れてあっても、具体的にどのように戦略を立案していったらよいかについて書かれた本は、アマゾンなどで調べてみても全くないようです。唯一、紹介してあるものとしては、手前みそながら、私の書いた、「戦略経営バイブル」(PHP研究所)位でしょう。資源アプローチによる戦略立案のプロセスについて一例を説明してあります。


 資源アプローチに関連してついでに言っておくと、資源アプローチの具体例としてはどんなことが考えられるでしょうか。まず、企業における重要な経営資源とは何か、技術だというのなら、コア技術をどう活用していけばいいかということになります。いわゆる、コア技術戦略です。液晶技術をベースとして躍進したシャープが良い例でしょう。次に、人材だ、やはり経営陣が重要だということなば、サクセッション・マネジメント・システム(戦略的経営幹部育成システム)で経営者を次々と育てていくしくみを構築することになるでしょう。典型的な例としてはGEやIBMがあります。このことにすでにきづいた日本企業としては、キアノンがGEと経営幹部候補の交流をしていますし、住友化学はIBMをまねたサクセッション・マネジメントシステムを導入しているようです。もうひとつ、PIMSの原則からいうなら、組織の生産性が重要ですから、マネジメントのしくみによる競争優位を考えるという発想もあります。ハメルが近刊「経営の未来」で取り上げているホールフーズ・マーケットやゴア、グーグルの他、日本の楽天も典型例といっていいと思います。資源アプローチ関連については別途お話したいと思います。


 さて、組織能力の強化策不足ということですが、良くあるパターンとして、一つは組織能力強化のための戦略代替案の評価が十分になされていないということです。組織能力が正しく認識されていても、多くの場合、それがそのまま自社の取るべき最適な代替案に結び付くわけではありません。それは同じような組織能力を有する競合でもそれぞれ異なった戦略で戦っているからです。重要なのは、さまざまな戦略代替案を考えてみること、そしてそれらの戦略代替案を的確に評価し、最適な代替案を選択することです。その点をしっかりやらずに失敗した例はたくさんあります。実際、前職、コーポレート

エグゼクティブボードで、日本の大企業の役員の方からさんざん聞かされてきたのは新規事業の失敗をどれだけ多くしてきたか、どうして失敗したのかという話ばかりでした。失敗例というのは話をするまでは良いとしても、公にするのは難しいので、詳細な例を紹介することはできないのが残念です。

どの話にも共通しているのは、場当たり的で安易な方法を取ったために、事業を軌道に乗せられなかったということでした。戦略的代替案の抽出や評価には色々と工夫をすることが必要です。

 

 もうひとつのパターンは何でしょうか。新規事業を始める段階では、自社の資源は通常不十分ですから、多くを外部の資源に頼ることになります。その際、重要なのは、其の機能、能力の重要度に応じて、どれだけ自社でコントロールする必要があるかを念頭に置いて、どの機能についてどんな形態で外部資源を利用するかを決める必要があるということです。私の知る限り、この点についてしっかりと認識し、計画・管理ができている企業はないように思いますが、読者のみなさんの関わっている会社ではどうでしょうか。

基本的に重要な機能、たとえば、開発、生産、販売などのコアとなる機能については自社のコントロールのレベルを高く保持できるビジネスシステムを構築しておく必要があります。このことを一言で言うならば、組織能力と整合性のとれた機能別戦略を策定・実践するということになります。


 組織能力の強化策不足ということでは、以上の二つのパターンがよく見られる失敗の原因だと思います。次回は、組織能力の強化策の実行不足の話をしたいと思います。



最近、新規事業が上手く行かない理由について、あるいはその原因を特定する方法についてたまたま数人の人から質問されることがありました。その場その場ではお応えしているのですが、やはり、資源アプローチ、あるいは、組織能力という視点から体系だって考えてみることだ大切だと思います。

組織能力という視点からは、3つのステップに分けて考えるといいでしょう。それは、一つ目は、組織能力自体に関する認識不足、二つ目は、組織能力の強化策不足、三つ目は組織能力強化策の実行不足ということです。

ここでは、長くなりますから、一つ目の組織能力自体に関する認識不足という点について触れておきたいと思います。 第1に挙げられるのが戦略的発想の欠如です。たとえば、資源アプローチという考え方すら知らない方が結構多いように思います。ましてや、新規事業構築に望ましい学習アプローチや、具体的な方法論としてのDDPについて知らない人が多いのではないでしょうか。そして、新規事業においては、不確実性、つまり、リスクを下げるか、が重要ですが、その点についてしっかりと書かれている書籍もあまりないように思います。

2番目の問題としては、分析力不足ということです。たとえば、環境分析は行われていても網羅的でなかったり、事業の全体像を捉えていないということです。それには、顧客からの直接インタビューにより、事業に対する取組みや期待を把握することが最低限必要です。顧客へのアンケートや自社だけの調査では全く不十分なのです。そして、分析だけでは事実や推測の羅列にすぎないのであって、重要なのはそれを組織能力にどう結びつけるか、ということです。


3番目の問題としては、業界構造の把握が不十分なことが多いといえます。よくある失敗はコスト、品質などのミクロレベルに目が向いてしまい、自社でコントロールできないような業界構造、および業界を取り巻く環境とその変化を見ていないということです。ポーターの業界構造分析の主な目標は業界の魅力度を評価するものですが、ポーターのフレームワークを利用して、業界構造分析自体に囚われず、収益性を高める要因や収益性を低下させる要因、そして、リスクの評価までもやってみることです。業界構造分析は本来、スタティックな分析手法ですが、これをダイナミックな観点から、PEST分析と連動させて、業界構造の変化を見てみることが重要です。


4番目の問題は、対象事業領域が不明確ということです。資源アプローチ・学習アプローチの観点からは、まずは事業ドメインを設定することが大切です。また、いわゆる「戦略ドメイン」を最初から意識してもよいでしょう。しかしながら、市場の全体像を把握せず、売上計画を達成しようとするあまり、手当たりしだいにあちこちのセグメントに手をつけ、また、バリューチェーンの機能を早いうちに自社に取り込んでしまう傾向があるように思います。その結果、よりどころとすべき組織能力が不明確となってしまっています。対象となりうるいくつかのセグメントでの相対評価がまずは必要といえるでしょう。他にもまだまだお話したいことはありますが、本日はこの辺で。

母の病がきっかけで、すっかりご無沙汰してしまいまして、読者の方には大変恐縮です。ようやく快方のめどがつき一段落したので、ブログを再開したいと思います。

さて、これまで、優れた経営者を含め、さまざまな方と接してみて、成功して豊かでいる人とそうでない人のエネルギーのありようは、明らかに違うように感じます。


成功している人というのは常に違うわけではなくて、 普段はその人のエネルギーは普通の人と同じような感じで穏やかなのですが、必要な時にスイッチが入るというか、モードが変わるというか、戦隊モノや魔法使いサリーみたいに「変身」するのです。


必要な状況になると、来ている服は変わらないけど、いわば、「エネルギー的な変身」ができるのです。そして、自分を取り囲むエネルギーをうまくマネジメントできるのです。成功している人は周囲の不穏な動きを素速く察知して対処することができるのです。株式投資でうまく設けている人のように、一喜一憂するのでなく、長期的な観点から全体を見ているのです。


成功している人の場合、目標を決め、そこに向かってエネルギーを注ぎ込み続ける執念と持続力がすごいのです。 変身の仕方を覚えているという点では、こぢんまりした商店経営者と世界的企業の経営者には大差ありません。ただ、そこに強い目標意識があり、そこに期限内に絶対到達するという強さがあることが違いなのです。

    

もっと言うと、成功している人にとって、外面的成功は付随的な結果に過ぎないというか、其の人の人生において「自らの心身の輝きをどんどん発揮する」という目的を叶えるプロセスで自然発生するオマケなのかもしれません。


成功している人はどんな外面的な成功をするかを気にしているわけではなく、あくまで自分自身の計画を、そして周囲の人の計画の成就に貢献するという計画を怖れずに果たしていっているだけのように思うのです。



福島原発や放射能についてネット・サーフィンをしてみると、さまざまな関係者がさまざまな意見を述べています。これまでに、このブログで原発関係者の話をいくつか取り上げてきました。それらを読んでいるうちに、「藪の中」を思い出しました。

「藪の中」は黒澤明 が「羅生門」のタイトルで映画化しており、ベネチア国際映画祭によりグランプリを受賞しているので、ご存じの方も多いでしょう。「藪の中」は芥川龍之介が書いた小説で、藪の中で起こった殺人事件を7人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっています。捕らえられた盗人、清水寺で懺悔する男の妻、巫女の口を借りて現れた男の霊のそれぞれの当事者3人の証言は、藪の中で盗人が男を木に縛り付けて男の目の前で女を手込めにしたことは一致していて説得力はあるのですが、男の死因についてそれぞれ、「偶然」「他殺」「自殺」と食い違っていて、結局どれが真相なのか、誰が犯人だったのかは全て有耶無耶のままになっているのです。

人が死んだことは事実ですが、そこでの現実は各当時者によって異なっているので誰もが不思議に思うわけです。真実は一つのはずだから、誰かが嘘をついているに違いないとか、いろいろ論評されています。しかし、そうでしょうか。誰かが嘘をついているのでしょうか。藪の中、そして、福島原発事故や放射能の問題は、現実をどのように捉ええればよいかについて何かを示唆しているかのようです。

そもそも私たちが慣れ親しんでいる「世の中」では、「事実」とはどのような意味なのか、それは単に意味構成であって、真実とは別物ではないのか、そもそも「真実」とは何か、「真実」も「真実」として意味構成されたものではないか、とかいろいろ考えられます。私たちが今まで「客観的事実」と考えていた事柄は私たちが「客観的事実」として意味構成していることを示している、ということではないか、という疑問がわきます。

具体的に考えてみましょう。たとえば、「研究者」による「高橋さんの家族は、このような構造になっていて、このような関係性が特徴的です」という「記述」は「事実」なのでしょうか。こんなふうにあらためて聞かれれば、「いや違う」と答えたくなるかもしれません。しかし、通常は、これは「客観的事実」と考えられる類の「記述」ではないでしょうか。そして、「客観的事実」の存在を前提とすることで成り立っている専門的(学術的?)な場面で用いられる記述のほとんどが「高橋さんの家族はこのような構造であり・・・」の類ではないでしょうか。


「私はこのような家族は嫌いであり、したがって、この家族のあり方は歪んでいるのである。」のように記述すれば、それはすぐさま「それは客観的ではない」ということになるでしょうが、「高橋さんの家族はこのような構造であり・・・」と記述すれば、「それは客観的ではない」とはなりにくいでしょう。私たちがごく通常「客観的」「事実」と考える事柄の範囲、つまり、「客観的」や「事実」という言葉の適用可能領域はそのくらいのものではないでしょうか。私たちは、ある言葉を、辞書的にではなく、本当に、何を示すために用いているのか、それが一つ目の疑問です。客観的なら「事実」といえるのか、ということです。

改めて、先ほどの「高橋さんの家族は、このような構造になっていて、このような関係性が特徴的です」という「記述」を「事実とはいえない」とみなすなら、いったいこの「記述」は何でしょうか。そう問われると、「「研究者」の主観」と答えたくなります。それもそのはずで、「事実」という言葉は「客観」という言葉とほぼ同義として扱われ、「客観」は「主観」という言葉と概念的に対となり補い合う関係にあるからです。「客観」という概念なしに「主観」を説明することは難しいですし、逆もまた同様です。

「客観的ではない」ということはすなわち、「主観的である」ということであり、「主観的ではない」ということはすなわち、「客観的である」というような意味概念の関係性によって私たちの「考え」は構成されています。また、「客観的」であれば「事実」と結びつき、「主観的」であれば「事実」と結びつきにくい、という意味概念の関係性が、わたしたちの「考え」を構成しています。では、当たり前のように張り巡らされているこのような意味概念の関係性はいったいどこからきているのでしょうか。これらの言葉の実際の意味は、言葉そのものに存在しているわけではなく、言葉の繋がりの中で意味が付与されているようです。これが2番目の疑問、つまり、客観的でないものは主観的なのか、ということです。

次に、先の「記述」が「「研究者」の主観」だとすれば、「事実」とは何なのでしょう。

「「研究者」をもう一人二人連れてきて、其の人の意見を聞く」という打開策もあります。この手を使うことによって、「「研究者」の主観」が複数になり、それらが「一致」すればそれが「事実」なのでしょうか。たとえば、原発の御用学者と言われる人たちのことを考えてみればどうでしょう。それは単に「主観の多数決」にすぎません。しかし、私たちは多くの場合、「主観の多数決」を「客観的」と称し、それを「事実」として扱っているのではないでしょうか。第3の疑問は、「客観的」な「事実」は主観の多数決にすぎないのではないかということです。

研究者といっても、たとえば、原発の場合、原発を長年研究しているジャーナリストから大学の研究者までいろいろありますから、研究者の代わりに、「その道の専門家」を入れるという考えもあります。しかし、「その道の専門家」は「客観的」なのでしょうか。「専門家」であればあるほど、たとえば、「原子力村」と言われるように、「その道独特の主観でものごとをとらえる傾向が強い」とも考えられます。それなのになぜ、私たちは「専門家」=「客観的」(=事実、あるいは真実?)と考えるのでしょうか。つまり、専門家は「客観的」か?というのが、4番目の疑問です。

さらに、「高橋さんの家族は、このような構造になっていて、このような関係性が特徴的です」という家族の状況についての「記述」ですが、「家族の意見を聞く」というアイデアもありえます。がなかなか出てこないのはなぜでしょうか。そもそも「家族の意見」は「客観的」とはいえないからでしょうか。「そりゃそうだ。だって、「当時者」だから、主観的に決まっている」と言われてしまいそうです。では、「専門家」は「当時者」ではないのでしょうか。「研究者」は「当時者」ではないのでしょうか。

少なくとも、「家族」が「専門家」の前に現れるまでは、「専門家」は「当時者」ではなかったでしょう。しかし、いったん「家族」が現れてからは、「専門家」は「当時者」ではないでしょうか。「家族」は「専門家」にアドバイスを求めて現れるのであって、他の何をするためにやってくるわけではないとすれば、「専門家」は十分「当時者」であり、「専門家」の考えが「主観的」であるという点は「家族」とあまり変わらないのではないでしょうか。つまり、研究者も当時者であれば、「客観的」はどこにあるのか、これが、5番目の疑問です。

それにしても、私たちはどうしてこれほど「客観的」「事実」にこだわるのでしょうか。「主観的」では何か都合が悪いのでしょうか。「主観は科学的ではなく、科学的でなければ「事実」ではない。科学的であるためには、客観的でなければならない」と私たちは信じ込んでいます。しかし、そもそもどうして「科学的」であることがそれほど重要なのでしょうか。「経験的」であることや「感覚的」であることが、いつも、より「劣位」で、「科学的」であることが、かならず、より「優位」なのはどうしてでしょうか。そして、それにもかかわらず、「科学的」であることを支える「客観」がせいぜい「主観の多数決」でしかないというのはどういうことでしょうか。それはだれのためなのでしょうか。これが、6番目の疑問、そもそもなぜ「客観的」な「事実」にこだわるのか、です。


続く。

戦略立案に際して最近有力なのが資源アプローチという考え方です。一言でいえば、自社の経営資源を分析し、自社の強みを生かせる方向性を考えようということです。資源アプローチで実践的なコンセプトとしては、BCGのケイパビリティ、マーサー・マネジメント・コンサルティングの隠れた資産などがありますが、今日は新たなコンセプトを紹介します。

BCGのケイパビリティとは、企業の組織としての様々な能力を言います。日本の研究者が使う「組織能力」という言葉に近いものです。ケイパビリティを分析する際には、バリューチェーンというフレームやスキル・プロセス・プラットフォームといった切り口で検討します。隠れた資産とは、コアの製品・サービスを開発するプロセスで派生する無形資産のことで、顧客関係資産、戦略的資産、ネットワーク資産、情報資産という切り口で分析します。

ケイパビリティや隠れた資産は共に優れたコンセプトですが、ケイパビリティは組織の内部に焦点を当てたコンセプトであり、隠れた資産は、顧客との関係性に焦点を当てたコンセプトです。もっというと、これらのコンセプトは会社という組織をあたかも機械とみる世界観がベースとなっていると言えます。

ところで、組織とは同時に人の集まりであるという捉え方もできます。つまり、組織は、自らの意思や欲求をもち、環境に関わらず、自らを変化させることのできる生命体とも考えられます。生命体である組織は多様な個性をもち、組織として学習し、時には想像を超えた能力を主体的に発揮します。

組織を機械とみる世界観には20世紀の工業社会が背景にあったと言えるでしょう。それに対して、21世紀は知識が付加価値を生み出す知識社会であるといえます。たとえば、今日、成長著しい産業は、金融工学を駆使する金融業、インターネットなど情報技術を活用する情報通信産業、ゲームに代表されるコンテンツ産業、高度な専門知識を土台とするヘルスケア、また、デザイナーや弁護士、コンサルタントといったプロフェッショナル群です。これらの産業の競争力の源泉は、資本力や労働力というよりも、個人や組織の持つ知の力です。この場合、組織を生命体とみる世界観の方がマッチします。

会社の力とは経営陣や社員の一人一人が発揮する知の力だとすれば、組織の持つ無形の力を総称して知的資本ということができます。アクセルという日本のコンサルティング会社は、知的資本というコンセプトを提唱し、これを関係資本、組織資本、人的資本の三つに分類し、会社の強みの分析方法を紹介しています。

関係資本とは会社が外部と関わることで価値を生み出す力のことで、顧客との関係が生み出す価値である顧客資本、外部からの認知が生み出すブランド力、仕入先や販売チャネル等の取引先との関係が生み出すネットワーク力です。組織資本とは、外部との信頼関係を作る元となる、会社という組織の持つ力です。この組織資本には、技術力、仕事力(業務プロセス)、マネジメント力(経営管理システム)があります。人的資本は、社員の持つ「知の力」そのものです。この人的資本には、会社のビジョンや戦略を定め、内外に伝えるという経営陣の力、ビジョン実現に向けて仕事を進める社員の力、社員間の協力を促進する力としての組織文化があります。

以上が知的資本の概要です。知的資本は、ケイパビリティや隠れた資産よりも組織の競争力の源泉を包括的に捉えられるコンセプトとして有効です。知的資本を分析することによって自社の強みを明確にすると、とるべき戦略の方向性がおのずと見えてくるのです。