私は私の人生を語る上で

恐らく沢山の言葉と背景が必要で

到底、

信じられないほど家族関係がよくないこと、

ドメスティックバイオレンス(以下DV)にあっていたことなど語るには

随分と時間が必要そうだ。

 

だけど、思うこともあるし考えていることもあって、

これを全部書ききれる保証もないけれど

気長に興味のある人だけ読んでくれたらいいかと思う。

この「怒りで振り返るな」を語るには

それくらい時間が必要なのだ。

「DVにあっていた」と語れるようになるまで、私は20年以上もかかったのだから。

 

 

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幼少期の話をしよう。

 

兄と姉を持つ末っ子の私は、昔から絵を描くのが好きで

何でも絵でとらえる傾向があり、一度見たものを何でも絵で描く子供だった。

 

家族でテレビを見ていた時に、少しエッチなシーンが流れて、

私は年少さんだったし、どうせ見てもわからないと、

父と母がそのままテレビを付けっぱなしにしていた夜、

私が広告のチラシの裏に描いたのは、男の人と女の人がキスをして絡み合っている絵だった。

それから佐藤家では、キスシーン以上のいやらしいシーンの時は、

誰かがサッとテレビのリモコンでチャンネルを変える習慣がついた。

 

 

「末っ子は甘やかされて育った」とよくみんなに言われるが、私はそんなことを記憶していない。

 

 

父が福島県会津若松出身ということもあって、

「女より男!」「男を立てるもの!!!」

と、幼少期から強く刻まれ続けてきた。

「年功序列」「強いものが偉い!」という家系だった。

 

わかりやすい例で言うと、

いちごが7つあったとしたら

父と兄が2個づつ、姉と母と私は1個づつ支給される。

それが当たり前だった。

食に対して欲張りな姉は、私の分も欲しがってよく喧嘩になった。

そんな時は、

母と私のいちごを半分にして、

父と兄と姉が2個づつ、母と私が1分の1づつ...そんな家系だった。

私は子供の頃から食が細かったので、誰かに食べ物を取られてしまうことに関しては、何とも思っていなかったが、

「年功序列!」「上が偉い!」というのは何となくそこで学んでいた。

 

 

6つ離れた兄に憧れてよく遊んでもらった。

だけど、子供の頃の6つは、大人と赤ちゃんくらいの差があり、彼の遊びに対応できないでいた。

 

わざと砂利道で私を自転車の後ろに乗せると、

ガタガタ道で振り落とし、

まんまと私は砂利道に体を強打。

頭やら膝やら...血だらけになったことがあるのを覚えている。

そんなひどい目にあっても、兄に遊んでもらうのはいつも嬉しかった。

 

 

姉は2つしか離れていないが体格がよく、いつも優しかった。

2つしか離れていないのに、抱っこしてくれたり、あちこち連れて行ってくれた。

そんな優しい姉だから、

今思えば、兄より姉の方が可哀想だったと思う。

 

 

姉とは一緒にいることが多かったが、泣き虫な私のせいで姉はいつも怒られていた。

姉はいつも「お姉ちゃん」だった。

 

私は子供の頃から泣き虫で、そのせいで「泣かせたヨシコ(姉)が悪い!」と、

祖母からはよく布団叩きで叩かれていた。

祖母の話はまたそのうちしよう。

 

 

とにかく、泣き虫の私はいろんな人を困らせていた。

 

幼稚園に行きたくない私は、祖母の家で酷く泣いていた記憶がある。

母は仕事に行かなければならず、泣いている私を祖母に預けて仕事に行ってしまった。

私は「行かないで」と泣くが、当たり前に要望は通らない。

それでも泣き止まない私に、祖母はずっと怒っている。

唯一優しかった祖父は私を抱っこして慰めてくれていた。

だが、私は泣きすぎて抱っこしてくれている祖父の胸元で嘔吐。

爺ちゃんが生きていたら、土下座して謝りたいワンシーンだ。

祖父の話もいつかしよう。

 

 

子供の頃の私は耳が弱かった。

泣き虫な私は、自分の涙が耳に入って中耳炎になっていたのだ。

虚しく悲しい出来事だ。

おかげで兄姉の中で

自分だけがスイミングスクールに通えなかった。

羨ましくもあったが、実はそんなこともなかった。

2人が通うスイミングスクールが唯一の、母を独り占めできる瞬間だったのだ。

それに、時々アメリカンドックを買ってくれる母。

私は嬉しそうにそれを食べ、

「自分だけ特別だ!」と言う状況に酔いしれていた。

泳げない私の唯一の贅沢だった。

 

 

 

兄や姉は活発に水泳が得意だからと、当たり前だが、海やプール、湖へは本当によく行った。

 

 

週末、突然4時か5時頃父が起きて寝室に来ては、

「海に行くから準備をしろ!」と全員を叩き起こす。

 

私たちは眠たい目を擦りながら、服だけ着替えて車に乗り込む。

車は古いワゴン車で、昔はテレビモニターなんて搭載していないから、

父は私たちが飽きないようにと、20cm×20cmくらいの小さなテレビとビデオを後部座席に設置して

決まってそのテレビでドラえもんの映画を流してくれた。

姉は決まって車で吐いて、もらいゲロをしないようにと目を伏せさせられていた。

 

 

父が会津若松の人ということもあり、我が家は栃木県の中禅寺湖より福島県の猪苗代湖にばかりに足を運んだ。

当時はどこの水辺に行くのも3〜4時間はかかったし、それなら潮もなく、波の少ない湖だ!と、猪苗代湖を選んでいたのだと思う。

だが、そんなことは関係なく、

恐らく一番私が溺れた場所も猪苗代湖になるだろう。

もちろん私が溺れたのは湖だけではない。

海、釣り堀の池、プール、自宅のお風呂など...

浮き輪から抜けて勝手に溺れることもしばしばあったが、

兄と姉のいたずらで溺れることが一番多かった。

 

・ボートの上から突き飛ばされる

・浮き輪を取り上げられる

・浮き輪の空気を結構抜かれる

・私が足の届かないであろう場所まで私を抱っこして連れていって投げ捨てられる

・2人で協力して私を逆さまにする

 

今、こうして生きていることは、間違いなく奇跡である。。。涙

その度に2人はとても怒られるのに、人はどうして失敗を繰り返すのか。。

不思議でならない。笑

 

溺れるたびに耳の中は炎症し、中耳炎や外耳炎になる。

溺れるたびに水が嫌いになる。

...こうして「泳げないヒロコ」は作りあげられたのだ。

 

 

 

※ちなみに、その後20歳になってからスタートさせた

「チャレンジ(トライ)する」という私の活動の中で

25m泳いでみる!を達成させたのは21際の頃だ。

今でも泳げるかは不明。

 

 

 

父は熱血系の怒ると手が付けられないほど怖い人で、身長も180cmあったから

大男の大怒りは相当怖かった。

 

 

姉は「お箸の持ち方」でよく怒られていた。

私は箸の持ち方で一度も怒られたことがない。

「下手な持ち方でもいいから、ヒロコ!どうかご飯を食べて!!」と、何度も言われていた記憶がある。

兄は箸の持ち方より、御行儀で怒られていた。

寄せ箸、くわえ箸、迷い箸...

今は私もガンガンやりますので、大人って最高!って思いますね(笑)

怒られる兄姉を見て育った私は、要領だけは良かった。

こういうところは末っ子らしい末っ子だろう。

それに、昔から集中力だけはあった。

食べることなんて、二の次三の次だった。

 

ながらご飯を嫌う父だったが、

口を開けて私がテレビを見ている隙に、母は食べ物を私の口の中に放り込んでいた。

私はそうやって自分の意図しないまま食を済ませ、なんとかここまで大きくなりました(笑)

 

 

食が細い私ではあったが、

そもそも世間の飯は量が多い!!

 

幼稚園の時も、いかに沢山残すか?ということばかり考えていた。

いや...今思えば、幼稚園の給食の量だって多かったはずだ。

それに加て「甘いものなら子供は何でも好き」と勘違いしている謎ご飯!!

「白飯桜でんぶ乗せ」という気色の悪いご飯が頻繁に登場していたせいで、いつも私を困らせていた。

 

それでも半分は食べないと給食を終えさせてもらえなかった幼稚園。

必死に奮闘していた。

しばらくすると要領のいい私は

お弁当箱にふんわりと敷き詰められた白米と桜でんぶを、ぎゅーーっと端に寄せると、

一口も食べなくとも、半分まで寄せられるという事に気づいた。

まじか!!天才かよ!!最高かよ!!!

そのことがわかってからは、幼稚園で出される給食は、ほとんど食べた記憶がない。

「学習能力」というのを身に付けたのはきっとこの頃だろう。。多分w

 

 

家族での外食も私を困らせていた。

お子さまランチですら、全部食べられるようになったのは年長になった頃。

お子様ランチのメニューは大体決まっていて、

パッサパサな小さいハンバーグと、卵ふりかけがかかっている、味のついたご飯。

明らかに兄姉が食べているものの方が美味しそうだったが、

母に「おもちゃもつくよ〜」と乗せられて、お子様メニューばかり頼んでいた。

 

 

父は永幸(エイコウ)という中華屋が好きでよくそこに行ったが、

そこにはお子さまランチがなかったので、誰かが大盛りで頼んで、それを分けてもらって食べていた。

 

ある日、

「私お腹が空いてる!!1人で全部食べる!」と訴えた場所も永幸だった。

そこで私は、初めて1人前を頼むことを許可された。

小学1年生くらいだっただろうか?

私がそんなことを言うなんて、奇跡に等しいのだ。

「どうせ残すんだからやめとけ」と、みんな批判的だったが母だけは違った。

「何だったら全部食べられるかな?」と一緒に考えてくれて、

「カタ焼きそばならお菓子みたいで全部食べられる!」と私はトライした。

が...3分の1食べたあたりで、

何度も噛まないと飲み込めないカタ焼きそばのスタイルと、私のコンディションがマッチせずすぐ撃沈した。

「ほら見ろ」「だから言ったんだ」「馬鹿じゃないの?」

父も兄も姉も私を罵った。

私はその時も泣いて、カタ焼きそばを全部吐いた。

 

やっぱりヒロコにはお子さまランチだよなと宮ステーキにもよく連れて行ってもらった。

小学3年生にもなれば、お子さまランチを頼むのが恥ずかしい年頃になってくる。

みんながステーキを注文するのが羨ましくて、お願いして私もみんなと同じステーキを初めて注文した日

私はやっと赤ちゃんじゃなくなった気がして嬉しかった。

目の前には熱々の鉄板にジューーッと音をたてたステーキが運ばれてくる。

大きなフォークとナイフを持って、すごくすごくすごーーく嬉しかった。

みんなの真似をして、大きなお肉を口で頬張った瞬間...

 

「ん??な...何この固い肉...」

 

宮ステーキが悪いんじゃない。

たまたま筋のところを口に運んでしまった私が悪い。

分厚い肉なんて初めて食べたんだから仕方ない。

ペラッペラの薄切り肉でもなけりゃ、ミンチされたホロホロの肉でもない。

口の中の肉は私の歯では噛みきれず、更にいつ飲み込んでいいかもわからず、

私は最初の一口から、その日の食事が終わるまで、ずっと味のしない肉を噛み続ける事になった。

「いいよ、御行儀悪いけどここに出しなさい」と、父も母も紙ナプキンを差し出してくれた。

だが「御行儀の悪いこと」すなわち「怒られること」と学習している私は、

決して許しをもらっても「御行儀の悪いこと」ができなかったのだ。

一時間ほど食事をして車に乗り込んだ頃には、その肉も随分小さくなっていて、結局出さずに飲み込んで食べることができた。

「食べられたよ!!」と嬉しそうにみんなに伝えたが、家族は全員呆れていた。

 

苦い思い出もまたいい思い出。

いい思い出はまた苦い思い出。

 

不思議な物だ。

 

少し飛んで小学生の話をしてしまったが、時を戻そう。

 

 

幼少期の私は、沢山のことを吸収した。

「いいこと」「悪いこと」

の区別は、比較的この頃沢山教わっていた気がする。

 

・外で大きな声を出すな

・わがまま言うな

・ちゃっちゃと動け

 

父は「道徳的」な人だった。

会津若松の出であること、実家が大きな製麺所であることから

親戚たち「佐藤家の恥」と言う言葉を多用していた。

父の思想は本家ほどではなかったが、厳しい方だったと思う。

ベーシックな「道徳的なこと」は、母ではなく父が教えてくれた。

 

兄と姉はその辺よく怒られていたが、私は要領がよかった。

怒られないように2人がやることは一切やらない、とてもお利口さんだった。

 

 

兄と姉はよく捨て猫を拾ってきていた。

2人はその度にとても怒られていたけど、私は一度だって連れて帰ったことはない。

私が人生で「その猫もらってきて」と言ったのは、現在一緒に暮らしている黒猫のラだけだ。

(以前マルという猫と暮らしてはいたが、マルの話は別の機会にするとしよう。)

 

動物は、猫以外も沢山いた。

 

ニワトリ、トカゲ、カイコも育てていたことがある。。

 

ニワトリの卵を鶏小屋に取りに行き、それがテーブルに並ぶ。

少ないがそれは贅沢な食事だった。

ある時卵が孵化してヒヨコが生まれた。

我が家にやってきた小さな可愛らしい家族だ。

「ニワトリさんが食べないように巣から出しておこうね」

と、ヒヨコを捕獲して小さなケースでしばらく飼っていた。

「猫が食べるから」と蓋をつけてケース。

大きな水槽の一番下のところで、ヒヨコたちはチョロチョロ動き回っている。

まるで動物園のようで嬉しくて楽しくて、

姉と私はいつまでヒヨコたちを眺めていた。

 

可愛いなー可愛いなーー

 

ふと姉が母に呼ばれてその場を立った。

「蓋は必ず閉めるんだからね!」と姉。

「はーーい」と私はヒヨコを独り占めして、特等席で可愛がっていた。

そこから私は断片的な記憶しかない。

次のシーンではもう、ヒヨコが入っていたケースの中は空っぽだった。

 

「あれ?ヒヨコは?」

そう私が尋ねると

「ヒロコが殺したんでしょ」

と姉...。

 

私は蓋を閉め忘れてその場を離れてしまい、

開いた蓋に気づいた我が家の猫がいたずらして、ヒヨコたちを全滅させてしまったらしい。

「猫がやったから仕方ない」と母は言っていたが

実はこの話には私の記憶から消えている部分があった。

 

これは大人になってから、このシーンについて姉と話した際にわかったのだが、

真相はこうだ。

 

もちろん開けっぱなしにしてしまっていたが、

その中でも1羽、私はとても可愛い子がっていた子がいて、

私はその子が可愛くてずっと離さなくて

この手の平で握り潰してしまったらしい。

 

私がこの手でちゃんと命を殺めた瞬間だった。

 

先ほども書いたが、私にはその記憶がもちろん今もない。

母も記憶にないらしい。

唯一覚えている姉は衝撃だったと語る。

 

「ヒロコが殺した」

 

なぜか今も時々思い出す言葉だ。

 

苦い思い出はいい思い出。

いい思い出は苦い思い出。

 

思い出なんてもんを背負い続ける必要もないだろうが、

スポンジのような幼少の頃の脳や感性は、

様々な環境や感情で作られて行く。

 

それ以来、私は動物を自ら飼おうとか提案することはなかった。

きっと姉も衝撃だっただろう。

私は私で、とても衝撃だった、、、そんな気がする。