当たり前を「当たり前」と言うな!
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世の中のすべては液体でできている

人の常も、感情も、すべては水に同じだなと思う毎日。
それは、世の中すべては液体でできているのだから仕方の無いことだなと思います。

すべては、循環しあがったものは下がり、下がったものはあがる事を繰り返す。
水は実に素直に、高いところから低いところへ流れる。
究極の当たり前を究極に見せてくれる。

急流の水は、流れが厳しいが澄み、留まる水は淀み腐る。
政治も、生物も、大地もすべてが沸騰し、液体の理をただこなす。

虐げられ、苦しい水は上を目指し、
頂点を極めた水は、下へと追いやられてゆく。

当たり前を考える上で、常に、なんでも水に例えながら考えると私は考えやすく、また、読みやすい。

よのなかは水でできている。

ガキに自由など与える必要は無い!大人はズルイと言わせろ!

もし、あなたが今まで自由で居心地がよい所にいるとして、不自由なところに行きたいと思うだろうか?

多分、答えは「No」だと思う。

私が子供だったころは早く大人になりたいと思った。好きな場所に好きな時間に、好きなだけ遊べるからだ。

最近、「大人になりたくない」という子供が増えているらしい。
理由は、あくせく働きたくないとか、大変そうだからだそうだ。

じゃあ、その子供が何不自由なくいるのかというと、どうやらそのようだ。

親は子供に自由を与える必要は無い!
束縛の中と不自由を与え、大人は自由を見せ付けるべきなのだ。

「ズルイ」と言われたら
「大人はいいんだよ!」で理不尽に返すべきだ!
語るな!!

自由とは、それに見合う義務をこなしてこそ与えられるものであり、
義務をこなさない人間に自由を謳歌させれば、だれが義務だけ増える大人になりたいというだろうか。

大人と子供は、対等である必要はまったくなく、
絶対の序列の中になければならないのだ。

無論仲良くはすべきであるものの、
大人は大人であり、子供は子供である。友達でもない!
見合う義務と権利の元にあってこそ、それぞれの調整が自然にできるのだ。


私も「好き嫌いしない!」といいながら、する自分に
「ズルイ」と言われるが、
「大人はいいんだよ!好き嫌いは大人になってから言え!」
あぁ、快感。大人ばんざい。

その時には俺は迷わず死のう。

恐ろしい体験だった。
それは、まだ赤ん坊の私の子供と、私の宿泊した外国のホテルが火災になったときだった。
すでに火は15階だった私の部屋の廊下に達していて、脱出は不可能だった。
はしご車は届かず、火に触れていないのにひどい熱と、特に煙で、もはや生還は絶望的であった。

私は、そのとき「今、今日死ぬべきだ!」と思い、
赤子の我が子を抱え背面飛びのように、一気に窓から踊り出た。

一気に周りの悲鳴や怒号が聞こえる中ー




そこで・・・目が覚めた。
恐ろしい体験は夢だった。

夜中の3時。本当に恐ろしい夢だった。
一人寝付けなくなって、暗闇の中で一人私は考えていた。

「本当にイザというとき、あんなことが私にできるだろうか?」と。

「確かにあの状況は絶望的だったし、2人が死ぬより、わずかでも一人が生きる目があり、さらに親が子のために死ぬのは当然だ」と、
評論家ならいうだろう。

はたして、そうだろうか?
親が子のために死ぬことに躊躇ないのが当然でみんな自然にできて当たり前のことなのだろうか??

私には自信がない。
たとえば、沈み行く車の中。絶対に無理であろう猛火の中。
極端、サメの多数いる海の中。
私は自信が無い。私は死にたくないし、やりたいこともたくさんありすぎる。
だが、きっと死ぬべきときなのだ。

イザというときというのは、そうでない時に冷静に思うほど楽ではないと私は思っている。
イザという時というのは、「あぁこの時が過ぎてくれたらもう何もいらない!」と、考えてしまうほど恐ろしい時なのだ。

だから、私は今から常に考える。
「そのときには、迷わず死のう」「その時こそ、死ぬべき時なのだ」と。
何度も何度も。自分が洗脳され、死ぬべき時に考えもなく動けますように。


ほんの先日、タイの方で津波が合った。
12歳の少年が家族の中で生還をした。
まだ家族はあくまでも「行方不明」なのでこの後、どうか無事であってほしいと思う。

その少年の証言では、彼の4つ下の弟が流されたとき、
彼の父親が助けに行って共に流されたという。


私もその時には迷わず、命をかけたいと常に思っている。

世の中で大事なのは、金と言葉である。

最初にいうが、心が一番大事なのはいうまでもない。

しかし、2番目といえばコレらである。
少なくとも人間であるならば。

最近「大事なのは言葉じゃないんだ!」とか「お金の計算を気にする奴はケチな奴だ」的なキレイ事を当たり前とする人間も少なくない。
建前で言っているなら問題ないが、本気でそう思っている甘ちゃんもいることだろう。

だが、私はハッキリ言わせてもらう。
金は大事であり、言葉であると。

金はもう、自立の重要性をいままで強烈に訴えてきた私の過去の文章を読んでいただければそれで解るとおもう。
自立ということはつまり金ということだ。たとえ「ケチ」などと誤解されようと無駄な金は出せないし、また誰かを助けたいならばなおさら自分が倒れないようにしてから人に金を出すことが大事だ。
そうでなくば、結局人に金で迷惑をかけることになる。


大事なのは「言葉」である。

私はちょっと妙なのかもしれないが、自分の妻を「さん」付けで呼んでいる。
言葉は不思議なものだ。仮に、名前の呼び捨てから声をかけると、
その後命令調や、いいつけ調になりやすい。
相手はモノではない。

私は相手を常に尊重したいと心がけているが、やはり夫婦生活が続き常に一緒にいると、お願いするというより押し付け言葉になりそうになる。
しかし、「~さん」から始まると依頼する形に自然になる。

無論、呼び捨て調でも上手な人間関係を築いている方も多いと思うが、
呼び捨てによばれ、言いつけられるというのは面白いことだと思う人間は少ないのではないかと思う。

気分が良かったり、問題が無いときは良いのだがちょっと虫の居所が悪かったりすると、そこからつまらない言い合いが始まることも珍しくない。

言葉は非常に難しい。
例え身内であっても常に気をつけるべきである。
面と向かって、しかも身内でさえ、ちょっとした言葉の受け取り違いや、多かった一言で争いの火種となってしまう。

「言葉じゃない」「金じゃない」あまりうかつに言わないように心がけよう。
声に出すと自分が洗脳されるものだ。

心でどうおもっていても、
大事なのは、やはり言葉なのだ。金なのだ。

これほど大事なものは無いくらいに大事なのだ。

犬も猫も、子供も「物」ではない!!

ニュースでクローンネコが実用化されたと報じていた。
そのDNAから姿も癖もそっくりなネコを誕生させる。

今回ニュースで、ある飼い主が既に逝ってしまった愛猫をソレにて復活。
生後8週間のそっくりのそのネコを見て「OOちゃんが帰ってきた!」と大喜び!!

・・・私は正直関心できない。
そのネコは似ているネコであって、死んだ愛猫ではないのだ。それの悲しみから目をそらし、その存在すら「なかったことにしたい」というのはよろしくない。

きっと元のネコは飼い主が自分を忘れてしまうことを悲しむだろう。

私の実家の犬も今年夏死んでしまった。
特に良い犬で、家族がケンカしていると仲裁までするから驚きだった。
しかし、彼は死んだ。親父の悲しみは非常に深く、その心中は察してあまりあるものがあった。

親父と飲んでいたら「また俺、犬を飼うぞ!おなじ白くて、いい犬を!」と言い出した。
私はこころの中で「彼の存在を否定するのかよ!」と思いましたが、そこはやんわりと、
「ん、あー、親父ならもちろんわかっていると思うし、それ自体は悪いことじゃないと思うが、、ただ、間違ってほしくないことは、それが如何に良い犬でもソイツはソイツで、逝ってしまった彼は彼だということだよね。彼を忘れるために飼うわけじゃないよな?」

「・・・」返事はなかった。
親父は言葉の意味を理解してくれたようだった。
実際、次の犬をかうこともなかった。

私は、生まれ変わりを信じたいといつも思っている、だから彼の犬小屋や、彼の道具などはそのままにせずに早めに片付けるようにしている。
忘れるためではない。

きっと、死んだあともみんな忙しい。
彼が「まだ自分の場所があるんだ」と勘違いさせないように。
もう、どんなに惜しんでも彼には行くべき場所だけしかなく、もどる場所はどこにもないのだから。
また、縁があれば会えることだけを信じている。

忘れないで彼を常に思いながら生きる。
「唯一の彼との出会いと別れを惜しみながら生きる」ということは、形でも豪華なお墓でもない。

それが、この世であり、人生そのものだと思う。
生きるということは、たとえどんな辛い状態でも、未来に向かって進むことだと思う。

間違っても、似た彼を手に入れて彼の死を・・いや、彼自身を無かったことにする事は決してよいことではない気がする。




悲しいほど誰でも知っていること
人は一人きりで生まれてくることを
人は一人きりで還ってゆくことを

人は一人きりで始める旅がある
人は一人きりで見つめる夢がある

だから一緒にいた
二人で歩いてた
とても愛しかった
とても大事だった

遊佐未森「ONE」

運の大きな海の前には、自分の「実力」など「単に浮いてられるだけ」レベル。

海で水泳選手が水死した記事が出たとき、私の妻が
「水泳選手でもおぼれるんだね!」と私に驚いたように言いました。
「当たり前だろ!」とは言わない私の言葉は「まぁ、そういうもんだ」です。

私は・・・いや、私だけではないと思っていますが、
それなりの無理なノルマや、「無茶だろー」と思うこともこなしてきました。

上司や、本社に褒められる度に私は「いえ、ただ運が良かったもので・・」と言ってきました。謙遜でも、社交辞令でもありません。私は心底そう思っているのです。

きっと「実力」なるものは経験や思考を重ねるたびにソコソコ上昇しているんだなぁとは、実感してはいます。いや、間違いなく自分は前年比で実力は上がっていると思ってもいます。

これ(実力)を「運の海を泳ぐ力」と私は例えています。

きっと、仮に5年前の私がその泳ぎで今の私と対峙した時には、遥かにかなわないことは間違いないでしょう。

泳ぎの実力は間違いなく上がっています。
しかし、それが一体なんだというのでしょうか。多少の泳ぎが出来ても「運の海」が少しでも荒れればあっというまにその力は発揮できずに溺れ、
逆に、イキナリその5年前の私でも、イキナリ凪いだ海を隣で苦しむ私を尻目に泳ぎ進んでしまったりします。

振り返れば、縁や運があってこそ、良い結果が出ているのだなぁと毎回思います。
歌ではありませんが「あの日、あの時、あの場所で」ということが無ければ、、と思うとぞっとすることも少なくありません。

自立・実力を常に頭に置き、その実力を伸ばしても伸ばしても足が届かない運の海の深さを改めて実感します。

それゆえ、自分の実力だけが頼りだと思う私は、まずい結果は当然、自らの実力のなさを呪い反省しますが、
上手い結果が出るたびに「お天道さま」「神様」「ご先祖様」「まわりの皆様」に感謝せざるをえません。

「運の海を泳いでるのは俺の実力だけだ!」とはどうしても思えないのです。



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人間にも劣る!

昔見た、ドラエモンで「ガリバートンネル」という道具を使い、
小さくなると裏庭がジャングルのようになり、ハデに遊んでいるというお話があった気がします。

でも、アレって非常に危険な行為ですよね。
手のひらサイズになった人間は、格好の餌食です。文字どおり一旦人間の集団地域から外れたとき、そこは大自然の世界。

ねずみ、カマキリ、アリ、ヘビ、カエル・・どれに出くわしたときに勝てるでしょう?
さらに上空にも、恐ろしい捕食生物は常に獲物を探しております。

どれも、この世界で淘汰と鍛錬を重ね、必殺の武器と強靭な肉体を備えております。
人間は単体では鈍重でやわらかく、もろい餌としてのみしか扱われないでしょう。

「霊長類」「畜生にも劣る」どこまでも傲慢な言葉だと思っております。
畜生の彼らには、老後の保障も病院も贅沢も、泣き言もありません。

その日の糧を得るためだけに生き、未来を決してあきらめず、嘆きもせずに日々を戦います。
カモフラージュした敵、不意を付いて攻撃してくる敵、どんな手で襲われたときにでもすら、きっと彼らは、自分の実力と油断を恨むことがあっても相手を恨みはしないでしょう。

恐るべき、そして感服すべき根性と自立心です。

とても彼らのように私は生きることは出来ませんが、常に彼らの究極とも言える自立の精神には敬意を持っています。
他にも私が当然見習うべきところはいくらでもありすぎて困るくらいです、

しかし、そこまでの境地に達することは出来なくても、
人には少なくとも彼らには無いであろう、
「礼儀」「恥じ」があります。
それでようやく「人」といえると思います。

が、最近の悲しいニュースや、人の心を無くしたような話を聞くと、
「獣レベルにもなれず、人間としての心をも持てず、じゃあ、お前は何なんだ」と言いたくなります。

「畜生にも劣る!」
あの、とても失礼で畜生が迷惑します。その言い方は止めてください。




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ちょっぴりHなギャグにも、敬老精神で愛想笑いをされるようになりました。
昔ならまだ「それオヤジみたい」と言われたのにー!

恥を忘れてセクハラ発言はいけません!宴会の時には要注意!
「ついやっちゃたー」と心当たりのかたは反省しながらクリック!

親の仕事なんか、たった一つ。その子育てに失敗したとき、アナタは子に殺される。

親の仕事はなんでしょうか?そんなことは動物を見れば判ります。
簡単です。それはたった一つだけ。「一人で生きていけるようにする」だけです。

まぁ、我々は人間ですのでそれにプラスして「周りに迷惑をかけないで」という条件をつけましょう。

「子供の魂は子供のモノです。」これを間違えてはいけません。
親は自立をとにかく常に促し、一刻も早く家からたたき出すことを目的にがんばりましょう。

それをつい親は自分の期待を子を頼りに押し付けます。
以前にも書きましたが、頼るということは逆に相手の条件も飲もうという気になってしまいます。
「そこまで言うなら、俺の言い分も聞いてよ」という子のセリフは、人間社会の最大の原則である「取引の原則」にのっとっているので、必ず通ってしまいます。
その結果、頼る気持ちの分ワガママを通したりしてしまい、子の自立のきっかけをことごとく逃したりします。

頼らない!恨まない!そういう人生の取引には応じない!
親が子に頼って、自立した子が育ちますか。
親は常に「お前になど頼らない!20超えたら義務は無い!サラ金だろーと、野垂れ死にだろうと好きにしろ!全てにおいての自由が与えられたのだ!と。」
いえるように、また、子も「親は20超えたら本当に俺を叩きだすつもりだ」と常に自覚させましょう。

子供を信用するということは、
「スネチャマの言うことは間違いないザマス!ウソを付くような子じゃないザマス!」
と、バカのように言うことではなくて、
「俺も信ているが、モノは客観的にみなくてはいけない。今は俺を恨むだろうが、社会ではそうしなければ通用しないのだ。俺の息子のお前なら、いづれわかってくれるハズだ!」と、突き放し、恨まれながらも心で思うことが、
本当に子供を信じることだと思う。

自立の機会を逃し、甘える子供が巣立ちをできずに体力的に強くなってしまったとき、アナタは殺されることでしょう。
そしてその子供の未来も闇なのです。

男は一番。女は2番。

こういうタイトルを見ると、鼻息を荒くして現れる方々がいるかと思いますが、
これは我が家の鉄の掟です。正確には「父親が一番、母親が2番」ですか。

私は、家の長であります。次に妻、そして子供と、集団としてのリーダーを始め、構成員の序列は基本的に絶対的なものと定めております。
子供は理屈ぬきで間違いなくソレを望んでいるし、それこそ正しい姿だと私は信じております。

家にいるとき、子供の目には、母親にアレコレさせ何故この父親は只威張っているのだと、感じていることでしょう。

ただし、リーダーがリーダーたるためには構成員の信頼と、リーダーの役割を絶対にこなさねばなりません。

かいつまんで言うと、
一家が食うに困らない金を確保すること。
判断を的確に行い、有事の際にはどんな状態でも前面に出ること。
約束含め、何事も始めたら終わるまで下がらないこと。
得たものはどんな小さいものでも、まず構成員に報告・分配すること。

いまのところ全てこなしていると自負しています。
たまに行うパチンコでも、損はこずかいで処理し、勝ち分があったときには千円でも報告し、分けます。
子供や妻はまぁ、得たものをこっそり自分のものにしてもいいと思いますが、
リーダーがまず、それをやっては信頼されません。

父親は絶対の象徴であり、多少甘くとも家族は社会の縮図であるべきだと持論私は持っています。

子供は、母親に色々文句やワガママを言うものです。
しかし時として、母親のやさしさだけではこなせないことも少なくありません。
そのときに「お父さんにいうよ!?」と言っただけで、子供がひるむような存在でなくてはいけないと思っています。

それには、「単に怖いから」ではなく「親父は、甘えたことや間違ったことを通しはしない」という信頼が無ければなりません。
子供はなんだかんだ言っても、自分の言ったことがワガママであるということを知っています。それでも出てきてしまうことは仕方が無いのです。

ただし、悪気はなくともつい母親だからということで通そうとするものです。

一番よくないのは、母親が父親を子供の幼い頃からバカにすることです。
子供は成長し腕力がついたとき、いづれ母親の言うことを聞きません。
そのときに「とうちゃん!あんた男なんだから!」といっても遅いのです。

ただし、大事なことは妻から常に報告を受けるということです。
子供が母親だからと言って、いった秘密やワガママなど色々。

ただし、母親が秘密を厳守しているという前提を決して崩してはいけません。
必ず妻を介してアドバイスを与えねばなりません。
その信用を崩したとき、子供は報告を母親にすることを拒み、大事につながる芽を逃してしまうことでしょう。

母親をジャンプする際には、妻に「これはお父さんに報告する」ということを一方的にではなく、子供に諭して宣言させることも大事です。



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「とうちゃんお風呂最後ね。あ、水抜いて掃除もしておいて。」
妻の権力絶大!「父親」は一番だが、「夫」は欠番!子供よ!いつまでもいておくれ!
「俺もそんなもんだ!がんばれとうちゃん!」と思った方はココをくりっく!

見えるものを見る!次に見えないものを見る!

ウチのオヤジは、
その人生で得たであろう持論を、幼い私にいつも語っていました。

「いいか、俺たちには予知能力があるんだ。お前にもある。超能力ってやつだ!」
当時、その頃は超能力ブームで、私はオヤジの「超能力」という言葉に大変興味を持ちました。
「人間、見る、聞く、触る、味わう、匂いを嗅ぐ。という、五感があるが、
六感は未来を見る、感じることができる。いわゆる「霊感やまカン第六感」ってぇヤツだ!」

・・・ギャグがアレなのは、当時の時代があるのでアレですが。

私は興味深深でした。例えば?と、聞くと、
「そうだな・・・」ちょっと困った顔であたりを見回し、
「おぉ、丁度いい。この川を見ろ!」
それは、私の街ではある程度の大きい川でした。
「そしたら空を見ろ」
今度は青空を指差します。雲ひとつありません。
「これだけで、今日俺たちの町は晴れているが、山は雨が降ったようだと判る。川を見ろ。茶色に濁って、普段よりも水が格段に多い。」
「それだけ?」
私は正直がっかりでした。もっと劇的に大地震や事件を予知して、ニュースで取り上げられたり、人気者になったりと子供ながらの期待を持ったからです。

「ばぁーか!これだけだが、この差が驚くほど大事なんだ!それに気づく人間と気づかない人間で、得るものを得られなかったり、危険や危険な人間をそれと気づかず近づいてしまったりするのだ!」

「まず、見えるものをよく見る!それをとにかく繰り返せ!すると、気づくと見えないものが見えてくるはずだ!」
「次に、想像しろ!当たり前の未来は、当たり前の今の上に現れる!お前の予想が当たり前の未来をはずしたら、それはお前が「当たり前」を正確に見れなかっただけだ。何度も予想し、何度も外して、何度も考えろ!」
「最期に、見えたものが当たり出すようになると、つい口に出してしまうものだ。それを言うな。」

幼い心に残った会話は無意識に私をトレーニングしていきました。
今現在で役に立っているのは、主にその人間を見る時です。

私は立場上、社員面接、お客様、業者、様々な方とお付き合いしておりますが、
大体会って会話20秒でその方の性格、生い立ちまでわかります。
私の特技となっております。

しかし、やはり難しいもので10予想すると7くらいです。
「まず見えるものをよく見る!」「次に見えないものを見る!」
私はまだまだ、第一段階すらクリアできないのだなーと、しみじみ感じます。



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こないだ「コレはいける!」と思ったパチンコ台で、思い切り負けました。
妻に手を出して「必要なトレーニングだ!」といったのですが、「うん、自費で頑張ってね」とごもっともなお言葉。そこに確かに愛を感じました。

「所詮女には男の苦しみは理解されねー!頑張れ!自費で!」と
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