“かれ”の高校1年の生活は、高校生と呼べるものではなかった。

毎日、学校が終わると部活動にも参加せず、ただ家に帰り、テレビゲームばかりしていた。

中学生時代、勉強において保ってきた成績も落ちていき、クラスの生徒の中でも下のほうになっていった。

“かれ”は自由を求めて、学校を休むようになった。
風邪や体調不良と偽って。

そうして、“かれ”は社会的にも人間的にも地に堕ちていった。

“かれ”は自分の自由さえ保たれれば、他はどうでもよかったのだ。

“かれ”は特にクラスの生徒たちと団結して行う行事が一番嫌いだった。

体力テストという行事のとき、クラスの選抜メンバーが他のクラスとの対抗リレーで、見事優勝した。その時“かれ”はクラスの生徒たちが喜ぶのを、興味なさげに見ているだけだった。

文化祭のとき、クラスの出し物を決める役になった“かれ”はクラスの生徒を全員ステージにあげ、ぐだぐだの出し物をやらせておきながら、自分は音響の係をして、そのぐだぐだの出し物を遠くから見ているだけだった。

スポーツ大会のとき、“かれ”は、大会に参加することを嫌い、できるだけ参加する機会の少ない球技を選んだ。

そう、“かれ”は自分の自由以外、興味がなかった。クラスの中で影が薄く、存在すら失われ始めた。

しかし、高校2年の5月転機が訪れた。旧友とともに。
日々生活しているなかで楽しいと感じることよりも、悲しみを感じることのほうが多い。

私もそうだ。

そういった生活が続けていくと心は枯れ、悲しみすら感じなくなる。

“かれ”もそうだ。

そうして、心の刺激を求めて、過激な行動や攻撃的行動に走ってしまう者や無気力で全てに絶望した者が生まれる。

前者は、ヤンキーや不良と呼ばれ、よく人から嫌悪を買ってしまう。
だが、彼らは心を求めているだけまだいいのかもしれない。

問題は後者、無気力人間のほうだ。
彼らは、心を求めた行動をとることもない。やがて心は腐り、感情すら失ってしまう。

“かれ”がそうだ。

“かれ”は、中学生時代という多感な時期から心が腐り、感情を失いかけていた。心が未発達であったためだ。

そして、“かれ”は心に刺激を与えることを嫌うようになった。
周りの人が、盛り上がるようなイベントを嫌った。スポーツ大会や修学旅行といったイベントを。


高校生になったときついに心は、感情は、堕ちていった。