『スイウィーニー・トッド』という映画をご存知だろうか。
そう、「悪魔の理髪師」という何の捻りも無いサブタイトルを身に纏ったティムバートン監督の映画である。
 同じくデップとバートンがタッグを組んだ『アリス・イン・ワンダーランド』を私は今度の木曜にでも見たいと思っていた。そう、思ってい「た」のである。
 
 まずジョニーの演技が、某大衆向け海賊映画のそれと何ら変わりが無いのが残念である。個人的に、ハリウッドは、あまり有名な俳優もしくは女優を、大作に起用すべきではないと思うのだ。理由は、スターウォーズEP2、3でおなじみ、アナキン(後のダースベイダー)役のヘイデンクリステンセンを見て取ればわかるだろう。
 彼は良くやった。エピソード4、5、6を通して謎に包まれていたベイダー卿の出生の秘密、彼のダークサイドに堕ちる顛末を、ファン重く圧し掛かるの期待を背に、とても生き生きと演技していたように思える。ダースベイダーを、あるいはレオナルドディカプリオが演じていたらどうなったろうか。おそらく大半のベイダーファンは違和感を覚えるのではないか。「俺達は悪の化身、ダースベイダーを視にきのだ、こんなヤサ男ではなく」といわれるのが関の山。
 だがデカプリオを非難するのではない。彼も某沈没船映画ではお嬢様と恋に落ちる貧乏青年、あるいはニューヨークのギャング映画ではそのギャング青年を演じ、それそれ4時間の映画を飽きさせることなく魅せてくれた。
 だがどうして。ダースベイダーが駄目なのか。それは彼が「永遠の青年俳優」だからである。そしてヘイデンクリステンセンは「永遠のダースベイダー」となってしまったからである。
 その後クリステンセンは「海辺の家」という恋愛映画に起用されたが、もう彼にはダースベイダーがまるで亡霊のように憑いてしまった。
 同じことがデップにも言える。もう彼には、ジャックスパロウの亡霊が憑いている。これはどうしても祓うことはできないろう。どうしても、主人公がお茶目でカッコイイ、抜け目のない、ズルイ船長にしかみえない。

 ストーリーも凡庸だ。何故、過去の復讐を果たすのに、理髪師でなければいけないのだろうか。結局何を伝えたいのか分からずじまい。所謂復讐モノの教訓でおなじみの「復讐しても、残るのは虚しさだけ。」といったことを伝えたいのであれば、わざわざミュージカル調にする必要もないだろうに。
 ストーリー全体を通して少々暗めに画面設定されているため、血の紅が映えていたし、陰気さはこれでもかというくらい伝わってきた。伏線はあまりなく、SAWのような入り組んだギミックも無い、非常に王道復讐劇だった。ティムバートンは何を描きたかったのか、すこぶる疑問だ。
 何度も言うようにこの映画は、復讐する人間が「理髪師」という目新しさ以外何も伝わってこなかった。


 そもそもこの男、理髪師といいながらヒゲしか剃ってないではないか。ゴールデンウィーク中に髪の毛を切りに行きたかったのだが、こんな映画を見せ付けられたら、うかうか他人に喉を預けることは出来ない。
 日常会話の無い、目の下に隈のできた、やつれた、くたびれたイケメン男が、陽気に唄いながらヒゲを剃ろうとしたら、その時は、そんな理髪師がおりましたら、ご用心を。
なにも地球温暖化や水質汚濁についてではない。

ここでいう環境問題とは自分の置かれている環境の問題。

実は今週正式に卒業が決まりました。今週というのは、普通の卒業生は三月の頭には通知が来ていたのですが。。。

早い話留年しかけていました。

なんと7単位も引っかかっていましたwww

その中でも中国語Ⅴは私にはバベルの塔のごとく私の前に立ちはだかり、卒業というヘブンへの障害となっていました。

そのほかのヤツはどうでもよかったのですがね。なんか経大生が聞いたら笑っちゃうような甘い先生ばかりですから。

話をもとに戻すと、中国旅行から帰ってきたとき、寝耳に水の再試通告。

すっかり身体はヘブン状態。

学業スイッチを入れるのに相当苦痛でした。

急いで、「中級中国語 資格にチャレンジ」なんて三千円もする薄っぺらい教科書を買ってイソイソと構文をノートに書き込んでいきました。

再試通告から2日後(ここに公立大学の怠慢を感じる)、決戦の日。

ノート、辞書持ち込み可でしたし、実際のところ監督の先生もずっと本を読んでらっしゃったので、正直カンニングも可能だったと思います。


まあしかし、授業一回も出席せずに再試資格をもらえるということは、○先生に提出した反省文が効をなしたのか。少しだけ確信犯でした。

ので、正々堂々と、2日分の成果をルール内において発揮することに決めました。


結果、答案が半分も埋まりませんでしたが、なんとか単位をいただくことが出来たのは、日ごろの行いが(ry



初出勤は29日。色々な物事を整理し、社会人としての一歩を踏み出したいと思います。

49パーセントの不安と51パーセントの期待が交錯する自分自身の内的、外的環境問題。

こればっかりはちゃんと、ストレスという名の不純物をどんどん排出していかなければならないかな、と。
  「   お客様各位
    お会計をお待ちの際
   線の内側でお待ちください」

 こんな表記があったとする。
シュチュエーションを簡潔に説明すると、「回」という字を見てほしい。
 この漢字には口が二つある。内側にある口がこの場合レジである。
外側のでかい方の口は囲いであり、各頂点を柱としたとき、縄張りしてあるエリアである。

 その縄張りエリアの左側の下方のその表記はあった。
実はその一辺だけは縄が途切れており、床には一本線が引いてあり、客の目線にその文言を記した看板がひょっこりとあったのだ。
 ここで一つ疑問が湧いてきた
 
 「内側とはどっちなのだ、「回」の口と口の狭間なのか、それとも外側の口の左側なのか。」

 常識的な人間ならば、売り場にお会計をお待ちの人が散乱していると、商品を選んでるお客様に迷惑なので、囲いの中にお入りください、あ、でもある程度の秩序は守ってくださいね、
レジの順番もあるので状況に応じて云々、といった解釈をするであろう。
 
 普通の人なら、である。

 この私に、天邪鬼、要は自分勝手でわがままな人間に良識のある解釈を求めようという試みが間違っておるのだ。
 
 話は戻るが、私が言いたいのは、一次元的な説明ほど危険なものは無いということだ。

 例えばカレーを作るとき、一緒に作っている私に。 「玉葱切っといて」と言おうものならさあ大変。「ドン。」一太刀。はい切ったよ!!

 今のが一次元的な説明である。お分かり頂けたであろうか。
では二次元もしくはそれ以上の説明をしてみよう。


「玉葱切って!!短冊状にね!!」←二次元
「玉葱切って!!短冊状にね!!あ、繊維を断ち切るようにね!!」←三次元

 玉葱を切った結果の形は火を見るより明らかである。

 誤読に次ぐ誤読。
 
このように言語というものは無限の誤読が可能であることがわかるはずだ。
 もう一つ例を挙げると。


電車に乗った際、お気づきの諸兄もおるであろう。

 「非常の際、このコックを九十度左にひねって下さい。」というような(うろ覚え)表記。
 
 まず問題なのは「非常の際」という表記である。
私にとって非常なのは「強烈な便意」であったりする。
 二つ目、九十度とは何なのか。
九十回なのか角度が九十度なのか、という疑問に達する。

 二つ目については、二択であるからして、まあ非常な状態になったとて、そう時間はかかるまい。まれに九十回の方を先に試してしまうようなアホもいるだろうけどもそれは誤読以前の問題であり、潔く死ねばいい。
 「非常の際」これが曲者であることが一番の問題である。
「落石により、走行中の電車、トンネル内で立ち往生」。これは「非常」の際なのか。

 常人にとってすればまさにその「際」なのであろうが、非常識で身勝手で社会不適合者の私は、小一時間迷うかもしれない。そのうち、第二次落石に巻き込まれて乗客全員お陀仏、ということになりかねない。

 
 誤読の可能な文章は、文章としては未完成である。そこに誤読(隙)が生じる限り、人々は自分の良心、常識や都合の良いように解釈することが出来る。さらに性質の悪い人間は、悪意をもってしてそれに漬け込むであろう。
 情報の発信者は、その辺を肝に銘じて欲しい。



 ちなみに私は、「線の内側」がわからなかったので線をまたいでレジ待ちしていました。