男の子ならだれでも、やったことあるはず


あれです。




蛍光灯の紐を パ ン チ | 壁 |д・)




あれ実は俺もやってるんですよ。


ただし上段廻し蹴り



久しぶりに伊勢崎道場の師範代からメールきたと思ったら。。

どうやら彼は世界大会にでるらしい!
もう引退したって言ってなかったっけwww


なら「そうですか」で終わったが・・

スパーリングパートナーになれとwww
「伊勢崎道場生として世界を目指そう」とww
いやだww


体重100キロの蹴りは、例えるなら電柱で殴られたような痛み。

去年の真夏に出稽古行ったら笑顔で鎖骨砕かれそうになったし、足払いされてフローリングにローリング。内股笑顔で蹴られて一週間くらい七色の痣があった。。


ううむ。とりあえずまた修羅場をくぐってくるかww


大学じゃ後輩ばっかでどこか物足りないし。

しかし、いくらなんでもあの人との組手は
レベル上がりすぎだろww


猫とじゃれる→ライオンと死闘

このくらいの差があるぞww
 この言葉が意味するのは、「究極の下げマン」である。そう呼ばれたのは、おそらく世界で最も有名なブランド、ココ・シャネル(本名:ガブリエル・ボヌール・シャネル)、その人。「愛はいらない、セックスはしたい、男なしなら。」とふざけて言うような女性が、心底愛した男は、二人いたのだが、二人とも死んでしまった。幼少期を孤児院で過ごし、場末の酒場の踊り子から一転して、フランスファッション界の頂点に上り詰めた軌跡を視たいならこの映画だ。

 

 話は突然変わるが、時代はいつでも革命、もとい反社会的な行動により移り変わる。それを達成するのは容易でないことも、歴史が実証している。さらに言うなら、一部の懐疑的な者たちの力によって、世界は変わる。既存の価値観を、あるがままに受け入れず、懐疑的に捉え、新しい価値観を創り出す。
 宗教改革がそうだ。既存の制度、この場合は贖宥状であるが、それをマルティン・ルターは批判した。現代のようにtwitterなどでこの問題を取り上げれば、すぐに賛同者がそれをフォローし、批判されたカトリック教会は迂闊に、言わば当時の反社会的思想を、弾圧できないはずだ。
 もちろん、当時出来たことと言えば、活版印刷である。しかしながらそれは世界的に問題をリアルタイムに広めるアンプル的な存在にはなりえないだろう。
 今よりもっと大々的に弾圧活動が行われていたはずであり、もっと閉塞的な農村コミュニティ社会でもあり、交通網も今と比べて未発達で、亡命するにも多くの危険がともなうだろう。

 結果的に、その革命が正解だったのかは、おそらく意見が真っ向分かれるはずである。だが、その革命は、現代にも通じるカトリック教会の不正(ベネディクト16世の、児童への性的虐待問題など)を浮き彫りにし、絶対不可侵の象徴であったカトリックに対する市民の不満を代弁した形になった。もしくは、神をも批判することによって、ヒューマニズム、人間に対する尊厳、そんな抽象的な事を確立したのかもしれない。ただ、様々な学説が飛び交う中、私はそんな彼の、大きな組織、ことに世界を牛耳る超メタ的巨大宗教組織に立ち向かう姿勢には、尊敬以外の何も感じえない。


 ココ・シャネルもそんな「革命家」だった。彼女の場合はファッションである。当時、ファッションの基準といえば、派手な彩色を施したドレスに、大きなフリルを沢山着け、裾をズルズル引きずりながら、身体の線を細く見せるためのボディコン(死語)により窮屈感を覚えるものであった。そんな、当時では当たり前だったファッションを彼女は一蹴する。
 「シンプルイズベスト」、それは彼女のためにあるような言葉だ。カラフルに彩る女達を傍目にパンツにベスト、蝶ネクタイといったボーイッシュな服装である。当然のことながら、「少年」などと馬鹿にされたりする、褒められたかと思えば、その男性は、結婚を夢見たにも関わらず、亡くなってしまう。
 そのような中、彼女は自分の芯を変えることは無かった。恐らく、気丈に振舞っている人ほどその内面はグチャグチャしているものだと思う(自分がそうだから、偏見)。
 愛する人の死、弾圧、戦争(第一次大戦)。多分、我々平和ボケした現代人、特に日本人、が感じることのなくなった哀しみを背負いながらの改革は、並大抵の精神力では成しえないだろう。守ることで精一杯の日本人は、もう少し、ほんのすこしでもいいから「あ、改革してみようかな」って気分になってもらいたい。

 だからといって家族や恋人を放るいい訳にはならない。大切な人を背負って、この矛盾だらけの世の中を駆け抜けていく気概、芯をもった人間に私はなりたい。必死こいて駆け抜けた後には、糞だろうが、足跡だろうが、ゴミ屑だろうが、何かが残るはずだ。
 それが価値のあるものになるのかは、誰にも分からない。もしかしたら、何万年後かに、現代で言う恐竜のように、我々がどのように生きたかの、”証”になるかもしれない。$hirokingのブログ