海の向こうに光の帯が見える。

夕方になるとオレンジと青が混ざり合って、島の時間はゆっくり溶けていく。


毎日同じ店に行って、同じ仕事をして、同じようにカウンターでオリオンビールを飲むだけの生活。

楽しくもないが、苦しくもない。

それって1番幸せなのかもしれない。

島の風は何かを忘れさせてくれる代わりに、何かも奪っていく。



新しい奴が入ってきたのは、梅雨が明けた頃だ。 

笑うと目が少しだけ下がって、日焼けなんて知らなそうな白い肌なのに健康的で何か懐かしい匂いがした。


「車ないんだ?じゃあ俺が連れてくよ、運転上手いんだぜ」


それが合言葉みたいに、いろんな場所に行った。

夜のビーチ、誰もいない港、街の外れのサンセットスポット。

車のエンジン音と潮騒だけが聞こえる、あの狭い密室の時間が妙に心地よかった。


ふたりで話すうちに、少しずつ呼吸が変わる。仕事の愚痴、昔のこと、笑い話。

気づけばふたりだけの世界になっていた。


「島ってさどこも近いのに、遠い場所が多いよな、車に乗ればすぐだけどさ」


そう言って彼はアクセルを踏んだ。海に向かう一本道を走り抜けると、風が甘い味をした。


海を見下ろす崖で車を停め座席に身を預ける、外の風が冷たかった。

彼の横顔は灯台の光に照らされて少しだけ切なく見えた。


「この島に来て、思い出したことがあるんだ。人を好きになる気持ちってさ、風みたいなもんだって」

彼の言葉に、胸の奥がちくりとした。

忘れていたはずの、あの頃の感覚が潮風と一緒に戻ってくる。


これが恋なのかどうかもうわからない。

そもそも、自分が恋をしたことがあるのかさえ、定かじゃなかった。

ただ、一緒にいる瞬間だけいつものビールが少し違う味になった。明日もこの車に乗りたいと思った。


島の夜は深くて静かだ。ふたりは言葉を失ったまま、波の音を聞いていた。


車社会のこの島で、車を持たない者と持つ者が出会い、同じ景色を見ていた。


たったそれだけの事。

たったそれだけの事で生活は少し甘酸っぱくなった。明日になれば、また仕事をして、ビールを飲むだけの日々に戻る。それでも構わない。


あのエンジン音と潮騒の重なる瞬間を、自分は忘れたくない。




 


 



水族館という場所は、時折、海よりも静かだ。


開館前の巨大水槽はいつもまだ眠っているみたいだった。

だけど飼育員たちは知っている。

静けさの中には、いなくなった命の形が、薄く薄く溶けていることを。


その朝、太陽の光はやわらかくて、水槽の青はいつもより深かった。

エイが旅立ったのは、前日の夜。

長くいた個体で、子どもたちが指をさすと決まってゆっくりと近づいていくそんな子だった。


水槽のガラスを拭く手つきは、何も特別ではない。

だけど、いつもより少し長くガラス越しの青を見つめていた。

その視線の奥には、誰にも言わない “ありがとう” が沈んでいるように見えた。



命の終わりは大きく語られない事が多い。

放送もなければ、知らせる掲示もない。

でも、朝の空気には確かに

「ここにひとつの時間が終わった」という手ざわりが残っていた。


昼になれば、客が増えてくる。

「大きいね」「すごいね」と、ガラスの前で笑う声が揺れる。

その声は、エイがいた頃と何ひとつ変わらない。

水槽はそのすべてを受け止めるように、波のように光を返していた。


夕方、巨大水槽に影が差し、あたりが少し冷える。


水の奥を見つめていた飼育員が、ふいにまばたきをした。

かすかな光の線が、水を斜めにすべるように流れていったからだ。

それは本当に偶然の光かもしれないし、ただの揺らぎかもしれない。

だけど、その軌道はどこか懐かしくて、エイがよく通っていた道筋そのもののように感じられた。

胸の奥が、そっと温かくなる。

別れが教えてくれるものなんて、そう多くはない。


ただひとつ、飼育員は気づいた。

水の中で途切れたはずのものが、自分の中ではまだ静かに続いていることに。


誰かがいなくなるというのは、音がひとつ消えることではなく、その生き物がふれていた景色の輪郭が少しだけやわらかくなることなのかもしれない。


夜になり、水族館じゅうの灯りが落ちた。

青い影だけが残った巨大水槽は長い眠りにつく。

そのとき、奥のほうでふっと光が動いた気がして飼育員は思わず立ち止まった。




水族館の夜は静かだ。

静かだけれど、とてもやさしい。

いなくなった命を抱きしめながら、

次の一歩をそっと照らすような静けさだった。

もう少し頑張ってみよう。




東京の駅は、いつ来ても風の向きがわからない。

高架を渡るたび、潮の匂いを探してしまう自分が少しばかり可笑しい。


あの人が先に私を見つけて、小さく手を上げた。

その仕草は、昔と変わらない。


「……その服、まだ着てるんだ」


声はやわらかかったのに、言葉だけがどこか冷えていた。

通りすぎる人の視線が、ふたりの間をすり抜けるような気がした。

次の瞬間には、あの人自身が言った言葉に追いつけていないようにも見えた。


何が悪かったのか、考えてもわからない。

ただ胸の奥で、波がひとつ戻っていく気配だけがした。


街は午後の光に満ち、ガラスに映る自分は笑っていた。

笑っていたけれど、あの人の視線はその笑みを知らないふりをした。

ふたりの間に落ちる影が、昔より少し長くなっていた。


「……行こっか」


そう言って歩き出す背中を、波の音の記憶が追いかける。

砂浜で並んで見上げた夕焼けの色は、もうここにはない。

あのときは、未来の形を心配する必要なんてなかった。


横断歩道の白線の上で足が止まった。

あの人の呼吸が一瞬だけ乱れたのを、誰より自分が先に気づいた。

理由なんてきっと無い。

ただ、行き交う人たちの表情がまるで私達の結末を語っている様だった。


名前を呼ぼうとしたのに声が喉で折れた。

代わりに、靴の裏で都会の冷めた熱をひとつ踏んだ。

未来のことを言い出すには、その熱は少し冷たすぎた。


「……帰るね」


あの人の顔に何かが揺れた。

揺れたまま、形にならなかった。

呼び止める気配だけが、薄い影のように足元に伸びた。

影は寄り添うようでいて、触れる前に他の影にのまれてしまう。


電車が動き出すと、窓に自分の顔が重なりその向こうであの人の姿は波みたいに崩れた。

自分が会いに来たのか、別れに来たのか、まだ決めていなかったのだと気づいた。

この先の季節を、一緒に越えるかどうかも。


沖縄行きの搭乗口に向かう途中、手のひらにまだあの人の温度が残っている気がした。

触れた記憶はなかったのに。

触れたところで、何が変わるわけでもないのに。


空港の椅子に座ると遠くから潮の匂いがしたような気がした。

もちろん気のせいだ。

けれど、その気のせいが、今日いちばん確かなものにも思えた。

あの人と未来を語れなかった理由よりも。