安全地帯の「恋の予感」は、個人的に好きな歌で、

カラオケでも、よく歌っていた歌で、

安全地帯だけでなく、作詞をしている井上陽水のライブ・バージョンなども

YouTube で見たりしていたので、特に深い意味はないのですが、

変な誤解を招く恐れがあるので、昨日の紹介ブログは、削除いたしました。

「悲しみにさよなら」なども好きな歌で、そういう意味では、玉置浩二は、一種の天才ですが、

一番、売れた「ワインレッドの心」は、あまりにも、80年代的過ぎて、

若干、抵抗を感じます。

「ワインレッドの心」も、同じく、作曲が玉置浩二で、作詞が井上陽水ですが、

まあ、バンド自体が、洋楽で言うところの、アダルト・オリエンテッド・ロック(AOR)的なバンドで、どういう意味だか、私もよく知りませんが、

ネイルアート好きの例の方が、最も、好んで使っているマニキュアの色でもあり、

年齢差、年齢差、と言いつつも、非常に、その辺に、大人の女性としての好みがあらわれており、別にワインレッドが嫌いだとか、そういう意味ではありません。

ただ、私が、いかんぜん、おこちゃまな大人なので、若干、あの色を見ると、圧倒されてしまようなところがあるのは、事実です。

まあ、それはともかくとして、「恋の予感」は、非常に井上陽水のカラーが出ており、

曲自体が、そもそも、女性に対する冷やかしソング的な色彩が色濃く反映されているところがあるので、「悲しみにさよなら」は、作曲が玉置浩二で、作詞は別の人なのですが、

全く、正反対の価値観を打ち出しているところが、

この2つの曲の特徴であり、問題の責任は、井上陽水さんに負っていただきたいと言いたいところですが、

まあ、なにぶん、歌っていたのが、恋愛とは、縁もゆかりもない時代の話でしたので、

その当時は、全く、私としても罪はなかったのですが、

立場が変わると、変な冷やかしになってしまうということに、昨日の時点では、気づいておりませんでしたので、この場を借りて、お詫びを申し上げます。

一方で、「悲しみにさよなら」は、JD・サウザーの、「You're Only Lonely」的な、「私が、君たちの悲しみを全部、しょって立つぜ」みたいな、自意識過剰の極みのような歌であります。

ライブ・バージョンでは、おそらく、ライブのエンディングでしょうか、「玉置さーん!」という、ファンの女性の絶叫が炸裂する場面なども見られます。

そういう点から言っても、やはり、問題の責任は、井上陽水氏にあると言っても、過言ではないでしょう。

「恋の予感」で、肩透かしをくらわしといて、その後に、「悲しみにさよなら」を歌うことで、ファンの心をワシづかみにしてしまうという、そんな演出だとも考えられます。

しかし、私が、昔、入院中のデイケアで、「悲しみにさよなら」を歌ったら、デイケアのスタッフのリーダーの男性に、くそみそにこき下ろされたという苦い思い出などもあります。

終盤で、キーが変わるところが、この歌のみそなのですが、彼に言わせると、私が歌うとそこんところが台無しになって、逆にくそになるということだったらしいです。らしいですというか、私自身、十分、そのことは自覚しておりました。

実は、その時の入院は、半年にも渡るもので、不眠症の時の3ヶ月入院をもしのぐ、恐るべき長期入院で、スマホも使用禁止だったので、毎日、ひたすら、iPod だけを聴き続けるという非常に過酷なものでした。

すっかり、自分の iPod の曲に飽き飽きしていた頃に、他の患者さんが、録画した、テレビの洋楽の映像を見て、不意打ちを食らったように、非常に感動したという思い出があります。

一つは、ABBA の 「Dancing Queen」で、もう一つは、Boston というロック・バンドの、「Don't Look Back」という曲でした。

まあ、「Dancing Queen」は、10人中9人は、一度は聴いたことがある曲ですが、「Don't Look Back」は、ロック・ファンでない限り、聴いたことがあるという人は、少ないかもわかりません。

しかし、まあ、この辺で、過去の女性遍歴の話も打ち止めにしておかないといかんなあという意味で、「Don't Look Back」な状況ではあり、そういう意味では、非常に、わかりやすい曲ではあります。

断じて、申し上げますが、当時、入院していたのは、男性病棟で、例のフィリピン人女性とも、当然、全く会っていなかったわけですが、若い女性看護師に、もやもやするとか、そのような事実は、一度たりともございませんでした。したがって、私が受けた侮辱の数々に対しては、それをもって、完全な回答とさせていただきます。

「半年ですよ、半年、その間、一度たりとも、禁欲的な入院生活で、そんな誘惑に陥ることはなかったわけですよ、そういう私が、今、たまたま、状況的に誘惑に陥りやすい状況にあるからと言って、それが私の人格の問題だと誰が言えるでしょうか・・・」という、まあ、わかり切ったことを説明するには、非常に、格好のエピソードでもありました。

そこんところが、日本共産党と行政側の意識の違いだと私は、申し上げているわけです。私も、かつては、そんなピーター・パンだったわけですが、今では、そんなことは言ってられない現実と直面しているということを、教会側の人々は、間違いなく、共有しているはずであるにもかかわらず、そういうことは、見て見ぬふりをして、共産党的立場から、人を矢面に立たせているわけです。単純に言って、卑劣なことだと、私は思います。

逆に言うと、相手の女性のせいにしているということにもなりかねないわけですが、相手の女性のせいや教会のせいでは、必ずしもないにしろ、少なくともシチュエーションのせいだということは、はっきりしていることです。

全く、異性的なしばりのない、無為な半年間よりも、異性的にがんじがらめになっている状態での、無為な3週間のほうが、はるかに過酷だということが、まず、教会の人たちにはわかっていない。そういうことは、比較的、当事者性の高い人たちですら、わかっていないと思います。ご本人にしてもしかりです。

とまあ、安全地帯がらみで、いろんなことを、改めて、自分でも自覚したような形でした。