ジョン・レノンを暗殺した、何某・チャップマンという男は、

キリスト教に改宗したことを理由に、自分を正当化しておりますが、

私は、全く信用に値しない事実だと解釈しております。

「ああ、そんなのが、キリスト教徒の模範だというのか、ほんなら、私はキリスト教徒でなくて結構だ」という話であります。

「ああ、好きなだけ、教会なりの嘘八百を喧伝しとれ」です。

第一、関口教会の終身助祭が、「神の国は、まだ来ていない」と言い張っている、この21世紀は、もう、すでに、実際には、神の国で飽和状態の、キリスト教の全盛期であり、いつ、世の終わりが来ようとも、神の栄光は、すでに成し遂げられており、もう、我々、人類としては、思い残すことなど、何一つ、ないわけです。

どんだけ、教会が噓八百を喧伝しようと、そんなのは、もはや、逆の意味で、「焼け石に水」なわけです。だから、ああして、ミサで、嘘八百の世界が、どんだけ、展開されようと、そんなことは、我々、人類にとっては、もはや、痛くもかゆくもない、単なる後の祭りに過ぎないわけです。

なので、典型的なクリスチャンである、JD・サウザーのような人物でも、

「This old world keep spinning around without a lucky guy like me」などとうそぶいて、あっけらかんとしていられるような時代に、もう、すでになっているという点に、私たちは、着目するべきところであるわけです。

したがって、まあ、たまたま、日本みたいな国が、キリスト教後進国であったとしても、そういう神の国の恩恵と言うのは、欧米やロシアからの輸入もんだけで、事足りる話であり、そういう恩恵のおかげで、わざわざ、自家生産するまでもない話なので、そんなことは、別に、由々しき問題でも、何でも、実際にはないわけです。

私は、半ば身内の立場としては、その、彼の「Go Ahaed and Rain」という曲のミュージック・クリップは、あまりにも間抜けなので、あまり、お勧めはしないのですが、そういう世の中から浮いた存在になり、カフェで、ウェイトレスをながめながら、ウェイトレスとベッドインするところを妄想している、JD・サウザーの姿というのは、そういう立場に追い込まれた、彼の心境というのを象徴している部分があるので、参考までにリンクを貼っておくことにします。

その後、彼は、40そこそこで引退して、その後の、半生を、テレビタレントみたいなことをして、のらりくらりと送っており、2度、結婚して、2度とも離婚しているわけですが、つい、10年ほどまでに、60代になって、一年発起して、「Tenderness」という突然変異的な話題作を、発表しており、その後は、定期的に、ライブ・ツアーもしているようで、非常に劇的な復活劇を果たしております。

奇しくも、その直前に、70年代の盟友であった、リンダ・ロンシュタットが、パーキンソン病に罹患したことを理由に引退しており、何十年経っても、そうやって、お互いの足りない部分を補いあっているような、麗しい兄弟愛のようなものが、彼らの間には存在するわけです。

実際、「Tenderness」の、国内版のボーナス・トラックには、そんな、「リンダに捧げる」というクレジット付きの、ボーナス・トラックも収録されております。

リンダ自身は、パーキンソン病にかかってから、自分自身の過去の実績というものに、全く関心がなくなってしまっており、それは、なにぶん、脳内物質のドーパミンの減少と言う、物理的な面が影響していることなので、致し方ないことなのですが、まあ、そんな彼女に代わって、彼女の過去の業績というものを再評価する役割も、その復活劇の背景には、あったりするわけです。

そういうのは、一種の兄弟愛であり、一時期、同棲していたこともあることから、恋人同士だったという見方もあるわけですが、私は、全く、そういう見方はしておりません。だいたい、そんな、別れた恋人のことを、あれこれ言うのというのは、常識的に考えて、まず、ありえないです。

そういう関係性というのは、私と、例のフィリピン人女性に関しても言えることなので、私は、何一つ、後腐れなしに、そういった過去の話をすることに、全く、抵抗がないわけです。私が、カラオケ・スナックでの洗礼に甘んじることなしに、あくまでも、公にカトリックの信者となることに、非常にこだわったのは、その後、障害年金の一時金の400万円を投じた、フィリピン旅行での体験が元になっており、そういう基盤がなくしては、こうして、社会復帰をして、就職することも、麻雀荘に通うことも、一般女性とお付き合いすることも、何一つできなかったはずなので、他の女性の恩を着るというのは、なかなか、一女性としては、認めがたい部分はあるかもわからないですが、そういうのは、「単なる兄弟愛以上でもなければ、以下でもない」と言って、納得していただくより他ありません。彼女は、私より、はるかに年下でしたが、私の下の名前を呼び捨てにする一方で、私の姓は、嫌いだと語っておりました。彼女は、自分の実の兄も、下の名前で呼び捨てにしておりましたので、そのあたりが、非常に象徴的だと言えると思います。何か、こう、非常に無国籍的な、一種、独特の関係なわけですが、まあ、同じことが、公の洗礼の時にお世話になった、元関口教会の主任司祭の方や、フェイスブックを通じた、JD・サウザー氏との関係にも言えることで、まあ、一種、独特ではあるものの、一方では、必要以上に、過大評価することでもないといったところであります。個人的に、興味深いのは、キリスト教後進国の日本でも、ちゃーんと、そういう人物がいることです。なので、我々、日本人が、そういうことで、特にコンプレックスを抱く必要は、全くないということです。まあ、そういう関係性にしても、非常に突然変異的なもので、何か、特殊な条件付けがない限りは、滅多に、そういうものが特殊な効果を発揮することもないので、今さら、謎の電話をかけてこられたりしても、対応のしようがないのも、一方では事実ではあるわけで、私は、むしろ、異性だからこそ、昔あった、恐怖映画のタイトル「着信アリ」そのものであったりするわけです。ちょっと、古すぎてわからないかもわかりませんが、ご想像にお任せいたします。