昨日のネタの、リンダ・ロンシュタットの「Willin'」の80年のハリウッドでのライブ・バージョンを含んだ、「Live in Hollywood」というライブ・アルバムがリリースされたのは、つい最近のことで、2年前くらいだったと思いますが、米国政府当局のお咎めもなく、どうどうとリリースされているのに、日本では、個人のブログでシェアすることすら、ままならないのは、お国柄の違いをよく表しております。70年代だから許されたとかなら、いざ知らず、米国では、現在でも、全然、そんなことを、いちいち、気にする人は、全く、いないわけです。なんでも四角四面に考える、日本共産党みたいな勢力は、米国では皆無なわけです。そういう四角四面な尺度で考えるから、そこから一歩、外れると、わあわあ、騒ぎ立ている人が大勢、出てくるわけで、そういうのが、要するに日本のお国柄であるわけです。しかし、そういう、お国柄を考えずにシェアするところが、アスペだと言われれば、そうかもわかりません。私の世代ですと、そういう場合、「空気読めない」の略で、ケー・ワイと、かつては言われたものですが、それも最近では死後になったので、アスペ呼ばわりするのが主流になっているようです。単純に、ケー・ワイと言っても、かなり、個人差があると思うのですが、重度のケー・ワイから、軽度のケー・ワイに至るまで、十把ひとからげで、アスペ呼ばわりするので、軽度の人からしてみると、誹謗中傷以外の何ものでもないので、そういう一つの単語で、バッサリとか言うんじゃなくて、何かしら、コメントするなり、何なりするという常識がないのは、あまりにもデリカシーがなさすぎます。それじゃあ、まるで、見ず知らずの人に対して、通りすがりに、「バカ」と言い捨てて、そのまま、何食わぬ顔で去って行く、通り魔と同じことで、頭がおかしいのか、どこかのカルト教団の手先なのか、どっちかですよという話で、ケー・ワイよりも、はるかにタチが悪いですよと話なわけです。まあ、一種の被害者面した新興宗教みたいなもんです。カサンドラのキーワードのもとに、地下組織を形成して、世の中を敵にまわしてなんぼの、「私みたいな繊細な人間は、世の中、理解されないのよね」みたいな論理を展開して、誰彼、かまわず、攻撃しまくっているカルト教団ですよ、そんなのは、という話です。新興宗教に属している人たちの心理と言うのは、得てして、そんなものです。まあ、そういう集団ストーカーを働いて、その結果、相手が自殺しようとも、そんなのは、自分たちを理解しない、本人の不徳のなすところだと決めてつけて、決して譲ることのない人種というのが、そういう新興宗教の人たちに共通する特徴なわけです。日本は、基本的に、無宗教の国なので、そういう大手の新興宗教的な基盤というのは、一種のライフラインとして機能している関係上、政府も、彼らの存在を決して否定はしないどころか、擁護すらしている現状と言うのは、エホバの証人が駅前で宣教することは許されているのに、カトリック教会やプロテスタントが、一歩たりとも外に出て宣教することを許されない現状というものが説明している事実であるわけです。たまたま、近所のプロテスタントの教会が、うちの団地にチラシを配ることが許されたことがあるんですが、基本的には、あんなのは、絶対、NG なはずで、普通はあり得ないです。日本が、キリスト教後進国であるのには、そういう、それなりの政治的背景があるわけです。で、一方では、そういうカサンドラ教団みたいなのが隆盛するなら、諸手を挙げて、大賛成するというのもまた、そういう政治的背景の裏返しであるわけです。なので、キリストが、「偽善者たちは、天の国に鍵をかけて、自分も入ろうとしない」と言っていますが、それが、日本のカトリック教会やプロテスタントの聖職者たちの性質というものをよく表しているわけです。全ての新興宗教が代替物であるなら、カトリック教会やプロテスタントと言う、正規の教会ですら、日本では代替物にすぎないわけです。そりゃ、そういう正論をぶちまけている私みたいな人物は、地元の小教区から隔絶されるに決まっているわけですよという話で、そういうのもまた、政治的圧力の結果であるわけです。なので、日本の憲法にある「言論の自由」もしくは、「信教の自由」なんていうものが、実際に機能していると思ったら大間違いですよ、という話で、そういうカサンドラさんたちもまた、そういう政府の手先にすぎないわけです。単なる、新手のカルトでございます。