キリストの誕生を英語で言うと、「レベレーション(revelation)」だと教えてくれたのは、

私の天敵みたいな聖人の聖フランシスコ修道会の神父の方でしたが、

まあ、神学校で、一通りの詰め込み教育を受けているだけのことはあって、

言っていることは間違いないです。

人生で起こることは、全て、神の摂理であり、英語では、「providence」と言いますなどとも言っていたようにも記憶しており、英語の表現のほうが、汎用性が高いことを、よく理解していました。

まあ、その辺は、やっぱり、英語圏=キリスト教国のためでしょう。

その時点では、私は、まだ、見えない敵との格闘中であり、彼の言わんとしていることが何なのか、理解しておりませんでした。

しかし、十代半ばから洗礼を受けるまでの三十代半ばまでの、約20年を、そういう日々で費やしていたわけですが、その敵の全容が解明されるのと、罪の意識に見ざめるのとは、ほぼ、同時に起こっている点が、非常に「レベレーション」的であり、今では、まあ、そういう含みのある説明だったんだろうということは理解できるわけです。

「reveal (明らかにする)」という動詞の名詞形だという説明も彼がしてくれており、

「veal」というのが、いわゆる「ベール」を意味しており、「(真相をおおっている)ベールがはがされる」と言う意味が転じて、「明らかにする」という意味になったというような説明でした。

まあ、そういう宗教的なうしろだてがないと、みだりに、当局側としても、本人の良心の呵責を刺激するわけにはいかないというような理由から、それだけの時間を費やすのは、やむを得ないことであり、例のフィリピン人女性が改宗の仲介役として最適であったことから、たまたま入ったカラオケスナックで、そういう出会いがあったことで、私としては、というか、当局側としては、満を持して、私に対して、ようやく、真相を「reveal」できるようになったといような形です。

まあ、だからと言って、そういう長年、闇に包まれていた敵の姿が明らかになったとは言え、敵の存在そのものが消滅したわけではないので、一般大衆の中に潜んでいる、内なる敵みたいなものとの格闘は依然と続いているわけですが、相手の正体がわかっているのと、そうでないのとでは、私の意識も、全く違うことだけは間違いないです。

そういうものの正体とは、一般大衆が「正義」と呼んでいるところの、その実態は、一般大衆の「偽善」であります。なので、彼は、「実は、我こそが、あなたの、その長年の敵なのだ、わははは」と言っているも同然だったわけですが、自分では、私の救済者だと信じて疑っていなかったようです。まあ、そんなことは、誰一人として認めたがらないのは当然のことなので、善人面して、説教じみたことを言いたがる人も出てくるのは、しょうがないと言えばしょうがないです。そういうのは、要は、良心の呵責の裏返しなわけですが、自分では、そういう自覚は全くないわけです。まあ、そういう正義感みたいなものは、実態は偽善にすぎないわけですが、彼らのアイデンティティと深く関わる問題でもあるので、そういうものを否定すれば、逆ギレされることになるのは、仕方のないことであり、私の存在自体が、そういうものを否定しているようなところがあるので、何かしら理由をつけては、攻撃してくる人が出てくるわけです。「そんなのは当てこすりもはなはだしい」と言ったところなわけですが、まあ、面と向かっては、私も言わないです。「ああ、これだから偽善者は・・・」と、思いながら、「しょうがねえなあ」で済ますしかないといったところです。まあ、言葉を変えれば、紛れもないパワハラなのですが、本人は、自分は仏様か何かだと思いこんでいるようです。そんな一般大衆を代表する腹黒い誰かさんの話でした。あるいは、そういうものを称して「鉄面皮」などと言ったりもしますが、私の父なども、その代表的な人物の一人だったりします。まあ、真相を知っている当事者としては、そういうことを告白できない葛藤みたいなものがあって、普通は当然だと思うのですが、経済的に面倒を見ているということで満足しきっていたもので、自己満足の塊みたいな性格なのですが、「偽善」だと言われたくないというのであれば、「自己満足」だと言わせていただきます。まあ、自分の納得いくほうを選んでくださいよくらいのことしか、かける言葉はないです。曲がりなりにも、そんなもんは「正義」だとは、言わさんぞという話であります。

 

※ベラスケス作の「セビリアの水売り」ですが、こういうのを称して「鉄面皮」と言います。