「読心術」と「遠隔透視」の掛け合わせだとか、

何だか、複雑な説明をしておりましたが、

私(49歳)の世代ですと、昔、「チャネリング」という表現が、よく使われていた時期があり、

主に、死者の霊にリンクするというような意味で使われていたような記憶がありますが、

その「生きてる人」バージョンだと言うと、非常にわかりやすいということに、

ふと、気づきました。

「ああ、当局側は、要するに、私にチャネリングしてるんだ」ということで、私自身は、腑に落ちたわけですが、まあ、今では、死後になっている言葉なので、そういう時期を知らない若い人たちには、何だか、説明になっているのか、なっていないのか、よくわかりませんが、「テレビのチャンネルを合わせるのと同じことだ」と思えばいいわけです。

まあ、そうやって、私たちは、テレビ局の電波と波長を合わせるわけですが、そういうチャンネルを持っている人が、一体、何人いるのか、私も知りませんが、まあ、最低でも一人は、いるということです。

そう考えると、世の中には、そういうテレビ局のチャンネルみたいな人が、一体、どれだけ、いるんだろうと想像の膨らむところですが、今のところ、私の知る限りでは、私以外には存在しないですし、まあ、そんなに大勢いるわけではないだろうといったところです。

そういう技術を持った人のことを、「チャネラー」などと呼んだりしていたような記憶もあります。

まあ、死者の霊の場合は、霊媒師のことですが、今、考えると、あえて、そういう表現をしていたのは、何でだったんだろうといったところで、今の私の状況を説明するには、最もうってつけの表現であります。

よく覚えていませんが、占い師が人の気持ちにリンクする場合などにも使われていたような、あいまいな記憶もあり、そういう占い師のことを「チャネラー」と呼んでいたような気もするのですが、そこまでは、確かな情報ではありません。

そういう場合に問題となるのは、チャネリングする側と、される側の、価値観の違いが大きいほど、チャネリングする側の苦痛は増大するだろうというようなことで、まあ、そういう場合の嫌悪感が、第三者を通して、伝えられるようなことがあったとしても、それは致し方のないことだろうと言ったところであります。

例えば、私が、個人的な記憶がツボにはまって、思い出し笑いをしてしているようなケースにチャネリングする場合も多々あると思うのですが、「それのどこが面白いのかが、あまりにも個人的すぎて、よくわからない」という価値観の違いが生じるので、そういう場合も、おそらく、相当、苦痛だろうというようなことが想像として言えるわけです。

ましてや、性的な感情にチャネリングするに及んでは、もはや、何をかいわんやであります。

あるいは、ジェフ・ベックのギター演奏に聴き惚れて、「うーん、こいつは鳥肌ものだ」などと私が関心ているようなケースにチャネリングしている場合なども同様です。

要は、チャネリングしている内容が、生理的な感情の場合に最も、価値観の違いが際立ってくるので、チャネリングしている側としては、おそらく、非常に不快な感情に囚われることになるだろうというようなことです。

要は、私の感情がより普遍的である場合は、そんなに苦痛ではないが、個人的すぎて、よくわからない場合には不快だというようなことだと思います。

個人的すぎて、よくわからないケースが積み重ねれば、積み重なるほど、ストレスが増大するので、そういう場合の結論としては、アスペルガー症候群だとか、自閉症スペクトラムだとか言うような表現が落としどころになるだろうといったようなことです。

当事者性が高くなるほど、チャネラーとの情報の交換の頻度も高くなってくるので、自ずと、そういう不快な感情も共有されることになるだろうと思われるのですが、普遍性が高い場合には、逆に共感度が増大するような形になるので、その辺は、そういう技術と言うのは、私にとっては、一長一短というか、両刃の剣のような側面があると思われます。

例えば、私の改宗上の回心体験と言うは、カラオケスナックでの洗礼の翌朝に、夢で、『innosent man』という聖歌が流れてきて、起きた瞬間に、自分の罪がゆるされたことに気づいたというものなのですが、そういうものに、客観的な普遍性があるかと言えば、極めて個人的で、「ゆるされた」という感情にチャネリングしていた人がいるのは間違いないのですが、そういうものに、どこまで宗教的な普遍性があるのかということまでは、あまりにも個人的すぎて、よくわからないという結論になるでしょう。まあ、見方によれば、ある種の、よくできた冗談にすぎないという解釈もできるわけです。そんなのは、チャネラーにとっては、どっちだろうが知ったこっちゃないという話にもなるわけです。一種の生理的なカタルシスには違いないが、まあ、そんな生理的なカタルシスなどと言うものは、腹が減っている時に何かうまいもんを食ったとか、宝くじで100万円が当たっただとか、そういう次元の問題と全く区別がつかないものなので、チャネリングしている側としては、「だからどうした」で終わってしまうわけです。それは、チャネラー自身がそんなわけですから、なんぼ、情報が共有されたところで、当事者の理解が得られることには、当然、ならないということなのでしょう。そういうものの対極にあるのが、ヴァチカンの壁画の「最後の審判」的な救済で、ああいうものが一般大衆の圧倒的な支持を集めている現状を踏まえると、私は目の上のたんこぶに過ぎないと言う理由から、私は地元の小教区とは絶縁したわけです。

それは、回心体験に限らず、ありとあらゆる生理的現象というか、個人的な体験というものが、チャネラー及び当事者側としては、反感の元になりかねないということであり、私の恋愛上の葛藤というのも、やはり、個人的な体験の一つである以上は、客観的な普遍性にかけるので、共感が得られるどころか、かえって反感を集める要因になりかねない現象の一つなのでしょう。

そこのところを客観的に説明すると、プロレスで、四の字固めをかけられているか、コブラツイストをかけられて、レフェリーに「ギブ、ギブ」と言っているような状況なのですが、どこがどう、四の字固めで、コブラツイストなのかということまでは説明できないので、客観的な証拠にはならないという理由から却下されているような状況です。チャネラーにとっては、そんなのは、やはり、生理的カタルシスの問題で、腹が減って死にそうだとか、宝くじが全然、当たらないだとかいう次元の問題と全く区別がつかないという、逆もまた真なり的な現象であるわけです。

共通するのは、どこがどう特殊なのかということを説明できない点にあるわけです。

なので、私が、その一週間は、1年にも相当すると、口を酸っぱくして言っているにもかかわらず、血も涙もないスケジュールを一方的に投げつけられたりするような結果になるわけです。

昨日は、そういう肝心なことをすっかり言い忘れていましたが、そこんところが、一番、肝心なところです。