絶対音感がないのに、鼻歌を歌うと言うのは、

読心術の当事者からしてみると、甚だ迷惑だとは、常々、私としても思うところではあります。

「音程が違うよ、音程がー!!」と、さぞ、絶叫あるいは、爆笑していることでしょう。

しかし、まあ、カラオケでは、一応、普通の音程で歌ってはおりました。

そういうカラオケに全身全霊を捧げていた期間が、数年間にわたって続いており、

そのような形で、苦し紛れに、精神的な均衡を維持していたような形でありました。

それまで、カラオケ自体も、大の苦手だったのですが、

34歳の時にたまたま入った、スナックが、元プロの演歌歌手がマスターをしている、

カラオケスナックで、そういういきさつから、ホステス陣も、カラオケの強者ぞろいで固められていたようです。

そこで、会ったのが、のちのち、改宗上、重要な役割を担うことになった、例のフィリピン人女性で、ここで強調したいのは、あくまでも客観的な事実として言っていることで、私だけの意見では全くないと言うことなのですが、非常に天才的な歌唱力の持ち主であり、地元のフィリピンでは、よく知人の結婚式に呼ばれて、「From This Moment On」という、フィリピンでは結婚式の定番の曲を、よく歌わされていたそうです。

それ以前に、そういうエピソードは、後から知ったことで、出会った、ごく初期の段階で、「何じゃこりゃ」と、逆に、ドン引きするくらいのカルチャーショックを受けたものです。

絶対音感こそないものの、審美眼だけはいっちょ前のところが、皮肉ではありますが、私の、ある意味で特徴であり、5曲入りのデモテープを作って、レコード会社に売り込みをかけたというエピソードも、ごく初期の頃の話であります。

何度も言うようですが、そういうことは決して、私だけの主観ではなく、それは周囲の人たち全員の意見の一致するところでありました。

一方で、私自身は、カラオケに対して、非常にコンプレックスを抱いていたので、出会ってから、10ヶ月くらいは、カラオケ黙秘権を、絶対行使しておりましたが、まあ、慣れと言うのは恐ろしいもので、半ば強引に解禁されるや否や、気づいた頃には、公然と、知り得る限りのロックの名曲を、片っ端から歌うようになっておりました。

カラオケスナックでの付き合いは、出会ってから、1年半後くらいに終焉を迎えることになりますが、そういう地盤固めみたいな時期を経験したことで、その後、数年にわたって、延々と、3週間に一度の、カラオケデートを続けるような形になりました。

まあ、基本的には、やはり下手くそなのは否定できない事実であり、歌える曲も限られていたので、3週間に一度とは言うもののの、2時間という長丁場を、ほぼ、私一人が歌うには、かなり知恵をしぼったものでした。

その女性が歌うのは、せいぜい、3曲くらいで、一体、何の猿回しやら知れたもんじゃないというような形式に自ずとなっていたような形でありましたが、何で、そうなったのかは、未だにわかりません。

おそらくは、当局側のアドバイスにおける、時間稼ぎのようなものだったと言ったところでしょう。まあ、相手のほうが、圧倒的にうまいので、それでバランスを取っていたような形でもありました。

そういうバランスの均衡を破ったのが、YouTube 上での、米国の歌姫リンダ・ロンシュタットとの衝撃的な出会いであり、彼女を知ってから、今度は、そのフィリピン人女性のほうが、カラオケ黙秘権を行使するようになったような次第でありました。

と同時に、私の精神的なバランスの均衡も破られて、精神的なスランプを経験するようになりました。いわゆる、社会的な自己実現の場を失ったような形で、それが契機で麻雀荘に弟子入り志願し、父の事務所の居候から、現在、勤務している会計事務所への転職という流れになっているわけですが、そういう流れに乗るまでの期間が非常に危険な状態にあったわけです。

まあ、とんだ自己実現もあったもんだという話で、人間、自分の存在意義を見失うと、何でもかんでも、節操なく、自分の存在意義を保とうという心理が働くものであり、そういうのが変態心理の背景にある、真の動機付けであると断言して、まず間違いないでしょう。

そういう意味では、なんぼ、改宗したとは言え、常にそういう過去への逆戻りをする危険性と紙一重で生きているのは、何も私だけではないという話であり、読者の皆さんが、一人として例外なく、明日は我が身だといっても過言ではないわけです。

だから、何度も言うように、「自分だけは違う」と言い切るタイプの人たちは、100%間違っているわけで、そういうのが、日本共産党的思考回路の人たちだと言っているわけです。絶対正義だとか、絶対悪だとかいうものは、ニーチェの作り出した幻想だと言っているわけです。そんな無神論的思想を教会が支持することがおかしいと言っているわけです。正義と言うものを具体的な行動によって定義することが、そもそもの間違いであり、立場が変われば、全く正反対のことが正義になることだってあるわけです。身近な例で言えば、うちの会計事務所がしていることなんか、税務署から言わせたら絶対悪かもわかりませんが、我々にとっては、それがあくまでも絶対正義なわけですよ。そういう論理になるのは、最初から税務署が絶対正義だと思うこと自体が間違ってるからであるわけです。やめていく人たちの、たいていの理由と言うのは、何が正義で、何が悪なのかわけがわからなくなって、頭がこんがらがってしまってやめていくわけですが、そういう正義だとか、悪だとかいうこと自体が、そもそも誰一人、定義できるものではないということがわかっていないだけの話です。まあ、そういう心理に陥れば、おのずとモチベーションが下がっていくのやむを得ないことですが、そういう正義だとか、悪だとかいうことの基準を、先生を始めとした外部に求めようとするから、頭がこんがらがってくるわけであって、要は、そういうことは主体性の問題なわけですが、主体性の問題だけに、社会的な枠組みから大きく外れる危険性というのも当然あるあるわけです。しかし、だからと言って、そういうことを多数決で決めていい問題なのかと言えば、決してそうではない、それが取りも直さず、ニーチェや日本共産党の幻想だと申し上げているわけです。あるいは、カトリック教会も例外ではないでしょう。正義だとか、悪だとか言うことは、個人個人の主体性が決定することであって、社会的な枠組みが決定するものではないという真理は、場合によっては、殺人やその他、もろもろの犯罪をも正当化することになりかねない危険性というは当然ありますが、その当事者にとっては、どこまでも正義であるという普遍的な真理というものも、一方では忘れてはならないことであり、そういう真理を受け入れるにはある程度、覚悟はいるでしょうが、私に言わせれば、そういうものの基準を社会的な枠組みにゆだねてしまうことのほうがよっぽど問題であり、その辺の、意見の対立と言うのは、おそらく、一般大衆との間では、永遠に埋まらないでしょうが、どこまでも真理であることには変わりはないわけです。

まあ、だからといって、そういう変態の時代に戻りたいとは私自身、全く思いませんが、結果的にそうなってしまったことを、あれこれ言う資格などと言うのは、誰一人、持っていないんだということは、多数決的正義は、場合によっては悪にもなり得るということと、個人個人の主体性における正義はどこまでも正義であるという表裏一体の真理から言えることであるわけですが、まあ、どこかで線引きをしないと、社会的治安が守られないのは事実ですが、そういう現実的な問題が必ずしも、多数決的正義を無条件に正当化していい理由にはならないということを申し上げているわけです。

まあ、そういう一種、ドン・キホーテ的な主張でありました。