日本人のキリスト教人口は、尋常なく低いにもかかわらず、

世論的には、聖職者を擁護する人たちが圧倒的に、大多数を占めていると言うのは、

何だか、意味不明ですが、何やら、迷信めいたと言ったら、また、怒られますので、

迷信だとは言いませんが、意味不明だと言うにとどめておきたいと思います。

何か、彼らを擁護しないと、バチが当たるとでも思っているのか、何なのか、よくわかりませんが、まあ、それも、信仰だと言えば、信仰なのかもわかりません。

私は関心がないと言うと、そういう無関心が諸悪の根源だと常に公言している教皇に立てつくことになるので、一応、曲りなりにもカトリックである以上は、一応、陰ながら、応援しておりますくらいのことは、言っておかないと、バチが当たるとか、当たらないとか言うのは、神のみぞ知ることであって、私の知ったこっちゃないですが、当局の政治的な圧力がかかることだけは間違いないです。

そういう忠誠心みたいなものは、微塵もないことは、小教区から離脱した時点で、自明の理だと思いますが、弱みを握られていることは、紛れもない事実ですので、はむかうわけにはいかないという、まあ、不純な動機と言われれば、不純な動機ではありますが、陰ながら応援させていただきますと、ここは、否が応でも申し上げておかなければならない場面であります。

私は、どっちの動機が不純か言ったら、弱みを握って、忠誠を誓わせるほうが、よっぽど、動機が不純だと思うのですが、まあ、意味不明な世論は、教皇を神様か何かのように支持しているらしいので、それは取りも直さず、そういう人たちの信仰が不純だと言っているようなものであり、そういうものが世論である以上は、まあ、聞きながしていただくより他、ありません。

まあ、私自身が、集団洗礼はナンセンスだ言っていることでもあるので、別にキリスト教人口が低いことは、支持基盤のないことの理由にはならないということなのでしょう。

確かに、言われてみれば、ヨハネパウロ二世に匹敵するか、もしかしたら、それ以上の知名度を誇っている、教皇人気という意味では、カトリック教会の全盛期とも言える時代ではあります。

おそらく、前教皇ベネディクト16世を知っている人は、百人に一人いるか、いないかと言ったところでしょうから、教皇の座が、何かしら、神秘的な意味をおのずから持っているとするなら、なんで、彼らは、彼が教皇だった時代に、彼を信じなかったのかと言うのが、私の個人的に主張したい点ではありますが、まあ、世論の神経を逆なでするようなことは、この辺にしておきたいと思います。

 

私が、女性の立場からの「憐れみ」を求めているのかということが議論されているようですが、そういうことをテーマにした作品が、毎度、お馴染みのロシアの短編小説家で劇作家の、チェーホフの作品の中にあります。以前に、引き合いに出したことがありますが、何を言ったのか、もう、覚えていないので、同じようなことを言うかも知れませんが、「イワーノフ」という、4幕ものの劇のことであります。絶版になっているので、入手することは可能ですが、電子書籍とかでは読めません。イワーノフと言うのは、主人公のミドルネームで、最初は、「イワン・イワーノフ・イワーノイッチ」という、日本人で言うところの、「山田太郎」みたいな名前にする構想だったのは、「イワン」というのが、英語で言うところの、「ジョン」みたいな、最も、ありふれた名前であることに由来しております。あまりにも、わざとらしいので、「ニコライ・イワーノフ・アレクサンドロヴィッチ」と改名したそうで、その結果、タイトルが「イワーノフ」になったというような形らしいです。そういう構想になった理由と言うのは、主人公に英雄的な要素が全くないことの象徴的な意味合いであります。したがって、そういう女性が、彼に感じるのは、「愛」なのか、それとも、あくまでも「憐れみ」なのかと言うことが、争点になってくるわけです。結論から言うと、女性から「憐れみ」を感じられるようになったらおしまいだというようなストーリーで、そういう主人公の自覚から、結婚を自ら破談にするというような話なのですが、劇場公開するにあたって、あまりにもドラマ性がないという理由から、劇場オーナーとの兼ね合いで、ピストル自殺するという結末になったようですが、その辺は、チェーホフ的には、あまり重視はしていなかったらしいです。後日談として、チェーホフ自ら、相手の女性の感情の本質は、あくまでも、主人公の男を救済するという使命感であって、本質的には愛ではないと明言していたようです。まあ、ダメ男を救済しようという、一種の情熱のようなものだという話です。そういう意味では、当初、予定していた、女性の正社員の人の仕事を受けるという話が破談になったのは、結果オーライだったと思っております。救済措置なのか、本当に実力を買っているのかという点が争点になっているわけです。特に、私の場合、統合失調症が持病であるという点から、その辺がうやむやになっていたわけですが、そういう経緯で、実力以外、評価しないという結論になったような形です。先生のそういう親分肌みたいなものには、共感しないということで、職員の皆さんの意見は一致したようです。そういう経緯になった背景にあるのは、一人の女性から、一人前の男性として評価されることとの整合性がない、そんなことは許すわけにはいかん、という、ごく自然な感情の表れですから、逆に言うと、これまで、いかに、他人の、特に女性の「憐れみ」が、私の私生活を支配してきたかということの裏返しであり、そういうものに職場の人たちも巻き込まれてきたということなのでしょう。そういう意味で事情が変わった以上、必要なのは、「憐れみではなく、鉄拳制裁だー」というわけで、ここは、心置きなく鉄拳制裁を食らっておくのも悪くはないといったところなのでしょう。今日、雨で、職場の自転車がスリップして転倒して、ズボンが破けて酷い目に遭いましたが、いわゆる、「自分でボケて自分でツッコむ」というヤツでした。そういう時に、「憐れみ」を求めている場合ではないという、そんな教訓が込められている、「イワーノフ」という悲劇の話でした。まあ、そんな私のどこに英雄的な要素があるのかと言われれば、それはそれで永遠の謎であり、そこんところは、ご本人以外、知るよしもないと言ったところではあります。