まあ、妻帯者の皆さんが、関取だとするならば、

私は文字通り、序の口みたいなものですが、

同じ相撲取りの立場から、非難された以上は文句は言えないです。

聖職者に宗教的な立場から非難されるよりも、

ずっと説得力があると思います。

ましてや、異性関係においては、完全にフリーな、カトリック教会の聖職者には

全く、関係のない話だと言っていいでしょう。

よく考えてみたら、それこそ、正真正銘の「同じ土俵」というものだなあと思いました。

軽い冗談のつもりで言ったことが、もう少しで取り返しのつかないことになるところだったというようなことが、実際にあるものだということも学びました。

私のよくわからない点は、どうしたら、ああいう人たちみたいに、

「完全に収まるところに収まった」というような境地に至ることができるのだろうかということの、

一点に尽きると言っていいでしょう。

まあ、早い話が、何度も申し上げている通り、現実逃避の結果に過ぎないわけですが、

同じ現実逃避にもいろいろあって、その辺の線引きの仕方がまだ、いまいちわかっていないということなのかもわかりません。

例えば、私の父などは、最もアブラの乗り切った頃は、麻雀基地外で、

毎晩、夜遅くに帰宅して、家庭をないがしろにしていたわけですが、

まあ、そんなのも、一種の現実逃避のような気がしますが、

当時は、誰も彼もがそんなことをしていた時代で、

別に父だけが例外だったと言うわけでもないです。

ワーカホリックという、アルコホリックの類語みたいな言葉がありますが、

仕事に熱中するというのも、逆に、一種の現実逃避の役割を果たすこともあるでしょう。

私も、ポスティングの仕事だとか、デパートの清掃の仕事だとか、

最近では、クリーニング工場のアルバイトをしていた時なんかもそうだったと思いますが、

そういう過酷な労働環境に置かれている時のほうが、むしろ、全く女っけのない、ストイックな生活をしていて、それが特別、不満だったわけでもないのは、ある意味、パラドックスだと思うのですが、仕事には、そういう現実逃避的な側面があることの表れだと思われます。

しかし、共通しているのは、肉体労働だという点ですが、現在は、もう、物理的に、そういう無理はきかなくなっております。

私としても、演じたくて、こんな綱渡りみたいな芸風を演じているわけではないのですが、まあ、新約聖書のある書簡では、「もう盤石だ」という時が最も危ない時だなどとも言われたりしております。綱渡りをしているという自覚症状があるというのは、そういう意味では、「心の警報装置」みたいなものが、まだ、働いていることの証でもあるわけです。その点が、私がスランプに陥った数年前の状況と、現在の状況との決定的な違いであるわけです。平ったく言うと、「地に足がついているか、ついていないか」の違いであります。そういう意味では、当時は、安全帯なしで、建築現場の足場を飛び回っている、命知らずの鳶工みたいな真似をしていたわけですが、その当時から比べたら、「理性」と言う名の安全帯は、きっちりしめてますよという状況ではあるわけです。まあ、あの当時と比べること自体が、論理の飛躍だと言ってしまえばそれまでですが、まあ、そういうことを理解していない人たちに対しては、あの当時、置かれていた私の状況と言うものの説明には、多少なっていることと思います。