有名な「山上の説教」(マタイ5章~7章)に、

「明日のことを思い悩むな」という説教があります。

「何を食べようか、何を着ようかということで、思い悩むな」と言っておりますが、

「何よりも、神の国と、神の義を追い求めよ」と言うのが要点です。

なので、「何を食べようか、何を着ようか」と考えているヒマなど、短い人生にはないと言うような意味合いで言っていると思われます。

特に贅沢をするなとか言う、倫理的なことを言っているわけではないと言うのが、私の解釈です。

その点を誤解すると、変に良心を刺激されて、逆ギレするようなケースもあり、

実際、私のフェイスブック友達の方に、そういう方がおられました。

好きなものを食べたり、好きな服を着たりすることが悪いことなのか、と言う、そういう反論は、非常にもっともなことですが、私には、そんなことを、いちいち、考えている余裕などないという、キリストの説教の趣旨は、非常によく理解できます。

「明日のことを思い悩む余裕などない」ということは、ましてや、来生のことを考えている余裕などなおさらない、ということに気づいていない点が、来生を保証されていると信じ込んで、ふんぞりかえっている、多くの信者たちの、大変な思い違いだと私は思うのですが、その辺は人それぞれと言ったところでしょう。

それが引いては、「心貧しい人たちは、幸いである」という、「山上の説教」の出だしの部分にフィードバックされていくような形になっており、信者だという理由で、自分に満足しきっている人たちが、いかに間違っているかということを、そのことが説明しているわけです。

したがって、「信者となること」はスタート地点であって、ゴールではないということが、要は、最も肝心な点であり、大多数の信者が、その辺を履き違えております。

信者以外の一般の皆さんも、その辺を誤解されているようです。

「そんなもんだよ」という捨てゼリフは、「ああ、クリスチャンなんて、そんなもんだよ」という意味で、「どうにもならないよ」という捨てゼリフは、「そんな、人間の嵯峨なんてどうにもならないよ」と言う意味に違いないですが、そういう思い違いというのは、「信者となることがゴールである」という思い違いがあるから、そういう結論になるんだと言う話なわけです。

たぶん、たいていの聖職者ですら、同様の思い違いをしていることでしょう。

そういう思い違いをしている聖職者が、そういう誤解を裏付けているから、彼らは、そういうことを真に受けて、そういう捨てゼリフを平気で残していくわけです。

「神の国」や「神の義」と言った、近いようで遠い、遠いようで近い、そんなゴールに向かって、日々、自分のふがいなさとの葛藤と向き合いながら生きていく、というのが、信者の本来の姿というものであって、何ゆえに、聖職者を始めとした信者の皆さんは、そう、自分に満足しきって、上から目線で、攻撃を加えてくるのかという、そういうものが、紛れもない「根拠も何もない自信」というもので、そんなものには、宗教的な裏付けなど、これっぽっちもありゃしねえんだという話なわけです。

平ったく言うと、謙虚さというものが、彼らには欠けております。

そういうことは、キリストが、福音書の全体を通して、口を酸っぱくして言っていることにもかかわらず、そのかけらすらもない。

だいたいカトリック教会という組織そのものが、封建社会的な、上下関係によって成り立っており、自分のことは棚に上げて、そういう風に、上からガミガミ言うことを上部の人たちは自分の使命としていることが、そもそもの間違いであるわけです。

まあ、「そういことがつまるところ、我々の職業である以上、やむを得ません」と言ったところでしょうが、そんな道徳の授業みたいなものは学校の先生ならいざ知らず、宗教的には全く無意味なことであって、そんなことを大上段に振りかぶって主張するのは、本来は聖職者の仕事ではないと、はっきり申し上げておきます。

プロテスタントが、「聖書のみ」と主張しているゆえんは、その点にあるわけです。