風俗店やポルノ・メディアが、性欲の対象とならなくなるという心理は、

一種の良心の歪みから生じている心理で、

そういう人生の岐路に立った時期と言うのは、私が26歳の頃のことです。

ニュー・オーダーと言うバンドの、「Bizarre Love Triangle」という歌の歌詞で、

「Everytime I see you falling, I get down on my knees and pray, waiting for the final moment you say the words I can't say」というくだりがありますが、

自分の罪は棚に上げておいて、他人(女性)の堕落する姿に同情して、「救済の精神」に駆られると言う、いわゆる自己撞着の状態に陥ったことが、そもそもの原因でした。

やがて、その「the final momonet」は、警察沙汰という形で決着がつくわけですが、文字通り、彼女のほうから、「the words I can't say」を繰り出すまでに、約1年ほどの月日をろうすることになりました。

何と言うか、絵に描いたような偽善者ぶりだと、自分でも思うのですが、デヴィッド・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」という映画を見て、カイル・マクラクラン演じる若い学生が、当時、リンチと同棲していた、イザベラ・ロッセリーニ演じる堕落した女性と、よからぬ関係に陥ったことを後悔して泣き崩れるシーンがあるのですが、思わず感情移入して泣いている自分がいたものです。

リンチの映画は、非常にきわどい犯罪映画ばかりなので、現在は、比較的、ラジカルなアマゾン・プライムでも扱っていませんので、具体的な内容に関しては、ご想像にお任せいたします。

その辺の偽善者ぶりと言うのは、以前、つきあいのあったフィリピン人女性がまだ、ホステスだった頃の、私の言動と非常に、オーバーラップするものがあるので、いろいろあって削除してしまいましたが、それを読んだ方は、だいたい、想像がつくところでしょう。

本当の意味で私自身が、罪の観念に目覚めるのは、カラオケスナックでひと悶着あって、彼女がホステスをやめてから、だいぶ、経ってからのことであります。

したがって、私が、そういう偽善者ぶりを演じる心理の基盤になっているものと言うのは、罪の観念ではなく、ありきたりな良心であり、その辺を私は厳密に区別しております。

言わば、良心の呵責の裏返しといったところであります。

そういうものは、罪の観念とは全く接点がないので、罪の問題がある程度、解決したあとにも、そのまま、そっくり残るものであり、そういうところをいじられるのは、私としてもじくじたるものがあり、特に、某有名銀行の女性との、通勤恋愛が真っ盛りの頃には、その辺を徹底的に攻撃されたもので、非常に頭に来たことも、しばしば、あったことは、職場にも証人のいる、れっきとした事実であります。

私に言わせれば、「そういうことを称して偽善と言うんだよ」といったところなわけですが、ご本人は、あくまでも正義だと言わんばかりの態度を貫き通したものです。

未だに、なんのこっちゃわからない慈善団体の募金を続けているのは、その頃の名残りであり、そういううわべばっかりの正義を強要されたがゆえであり、そういうものに、良心を揺さぶられる心理と言うのは理解できないわけではないですが、私にはどうしても、そういうものには必ず裏があるものだと思わずにはいられない、一貫した猜疑心のようなものがあるのも、一方では事実であります。

もちろん、良心と言うものには、世の中の秩序を維持すると言う意味では、なくてはならない役割があるわけですが、26歳当時の、自分の罪を棚に上げて、泣き崩れる私自身と言うものの正義にどれだけの誠意があったのかと言うことを思うにつけ、思い出すのは、

福音書の中の「梁(はり)と塵(ちり)」の説教で、英語圏では慣用句ともなっております。

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」というのが新共同訳聖書の訳ですが、

もともと、天上の梁と、その上の塵との対比を述べている説教なので、「丸太」は、「梁」に置き替え、「おが屑」は、「塵」に置き替えたほうが原典に近い訳になる思います。

まあ、梁を取り除けば、塵ごとなくなるという意味のたとえ話です。

そういう意地らしいところが、あの人にはありましたというような話です。

ただ、歪んだ良心が、当時のまま、矯正されずに残っている状況と言うのが、あらゆる人の攻撃の的となっている事実を考えると、別にそれは、その人だけの問題でないことは言うまでもありません。

「公正明大」という言葉がありますが、「良心の呵責」の対義語のような言葉であり、「人間、肩で風を切って歩いてなんぼのもんじゃ」という人々からしてみると、ケチをつけたくなる気持ちもわからなくはないですが、私に言わせれば、どうも、そういうのは、共産主義を始めとした社会主義的な思想に基づく、かりそめの姿にすぎないものであり、誰もが、いつかは滅びゆく運命にあることを全く念頭に置いていないと、いずれ、しっぺ返しを食らうことになりますよ、などともし、正面切って言ったら、「てめえ、ケンカ売ってのか」という騒ぎになりますが、まあ、ここだけの本音と言ったところではあります。

そんな、意地け虫の独り言でありました。

いじいじ。