「Rainny day blue ぅ~、終わったはずぅ~なのに~」と言うのは、
かつて、カラオケスナックで誰かが熱唱していた、ベタな邦楽ポップスですが、
帰りに一駅、歩くのは、体力的には全然、平気なのですが、
あの延々と続く桜並木の単調さが、苦痛でしょうがありません。
先週の金曜日には、煩悩から解脱した解放感に満ちあふれていたので、
「終わったはずぅ~なのに~」なのですが、
何がどうなっているのか、さっぱりわかりません。
慢性膵炎なので、2ヶ月に一度、血液検査をしているのですが、
特に、暴飲暴食をしているわけでもないのに、
ここ半年くらい、中性脂肪が異常に高い状態が続いているのは、
おそらく、歩くのをやめたことが影響していると思われますが、
やめた理由は、そういう理由からです。
今朝、血液検査をして、その辺がだいたい判明したので、
また、歩くことにしたのですが、
そうでもない限りは、とっとと電車で帰りたいところであります。
私のことを、鈍感なアスベルガー扱いする人たちの神経が私にはわかりません。
アスペルガーな人と言うのは、自己中心的で他人の感情をかえりみない人のことです。
とんでもない誤解だと言わせていただきます。
私もかつては、そういう「自己陶酔型」の人間だった時代があるのですが、
今の私は、全然、違います。
まあ、正直なところ、つい最近まで、そういう時代があったのは事実なので、
実際には、相矛盾する両面性を併せ持っているのかもわかりません。
単刀直入に言うと、リアリズムとフィクションの両面性であります。
そのわかりやすい実例というのが、JD・サウザーの、79年の3rdアルバム、「You're Only Lonely」がリアリズムを追求した傑作であるのに対して、84年の4thアルバム、「Home By Dawn」が徹底してフィクションを追求している点で、歴史的評価が高いのは前者のほうなのですが、後者も隠れた名盤といったところで、それなりに説得力のある粒ぞろいのアルバムであります。
リアリズムだけでは恋愛は成立しないことは言うまでもないことであり、それが、「You're Only Lonely」が失恋ソングばかりで構成されている理由であり、対して、「Home By Dawn」では、妄想の塊のような理想の恋愛像を形にしたような楽曲ばかりで構成されております。
結論から申し上げますと、「幸せはフィクションである」と言ったところですが、世にはそれを立派に演じきっている御仁たちが実際にいるわけで、それ抜きには家庭というものは語れないわけですが、それが普遍的な真理であることも、一方では事実なわけであります。
まあ、一種の宗教のようなものだと言うと分かりやすいかもわかりません。
そういう理由から、カトリック教会の聖職者は、結婚はもとより、恋愛自体を禁じられているものと思われます。
ただ、プロテスタントや正教会では認められているので、その辺は、賛否両論あるところだと思います。
そういうことで言うと、今、思い出したのですが、今朝、夢で、「病院に行かなくちゃいけないので、会社に電話しなければ!」と焦りまくっているのですが、スマホが誤作動を起こして電話ができなくて大変だー、というところに、謎のメッセージを書いたカードを手渡されて、こっちはそれどころじゃないんだよー、と思いつつも、カードを見てみると、何か、漢文式に、「離子宮乳」というようなことが書かれておりました。
「子宮」も「乳」も女性を象徴するものだと言うことは歴然としており、そういう意味で言うと、露骨な表現でたいへん恐縮なのですが、天から降ってわいたようなメッセージであり、私自身の発想では決してございません。
恋愛自体を否定しているというよりは、純愛を追求する上では、そういうものを切り捨てていくべきだというような意味合いのような気がしております。
天から降ってきたメッセージだとするならば、神様は決して、恋愛自体を否定しているわけではないと思ってもいいんじゃなでしょうか、といったところであり、カトリック教会の考え方は必ずしも正しいわけではないということになるわけです。
逆に言うと、「今、君は純愛を要求されているんだぞ」という厳しい戒めの言葉とも解釈できるわけですが、まあ、女性の立場からしてみると当然のことと言えば、当然のことであり、「今さら何を言っているんだ」というのは、ここのところの反省ブログの賜物とも言えるかもわかりません。
そんなわけで、今の状態は、リアリズムとフィクションの中間あたりを模索して、もがき苦しんでいるようなところだと言ったところでしょう。
恋愛における「今さら何を言っているんだ」的な名曲と言えば、やはり、カーペンターズの「I Need To Be In Love」であります。
3回目になると思いますのでスルーしていただいても結構です。