「塩でさえ塩気を失えば」という有名なキリストのセリフがありますが、

このフレーズを一番、最初の聞いたのは、改宗前のことで、

フランシスコ修道会の教会の通っている時でした。

神父様も、「そんなことはあるんだろうか」と、もう一人の受講生と共に、

頭を悩ませておりました。

そもそも、福音書自体が、そういう謎かけだけで構成されている性質の文書であり、

こうだと言う答えは存在しません。

なので、私自身、こうだと言う答えは知らないのですが、

まあ、普通に考えてあり得ないことは言うまでもありません。

「しけることを言っているんじゃないですか」等の珍問答を繰り広げていたのを

今でも覚えていますが、しけったからと言って、塩が塩でなくなるはずがないです。

おそらくですが、このフレーズの意味は、逆説的な観点から、

そういうことが仮にあったとするならば、存在意義をなくすだろうということであり、

そういうことが起こり得るとか、起こり得ないとかということを議論しているわけでは全くないということで、そういうことを議論すること自体、全く無意味だと言うのが私の考えです。

だいたい、あんな教会のミサなどと言うもの自体が迷信のカタマリであり、

そういう目的で集まっている共同体自体にも、何の意味もないことは自明の理と言うものであり、

そういう人たちから必要とされなくなったことは、私に言わせれば、むしろ誇るべき事実だと言いたいところであり、

そんな低レベルな事件が起きたことくらいで、私のキリスト教徒としての存在意義に関わる問題では全くないです。

それで、そういうフレーズを引き合いに出したのだとすれば、

おカド違いも甚だしい話であり、

第一、引き合いに出した当事者自身が、その意味を全く理解していないじゃないかという意味で、私のわかる範囲で説明申し上げたような次第であります。

自分が信じてもいない宗教を引き合いに出すもんじゃないという話であり、

そういうことは、聖職者も含めての話であります。

叙階の秘跡が何だろうが、偽善者はいつまてだっても偽善者に過ぎないのは、

あんな愚にもつかない説教をどうどうと繰り広げていること自体が証明していることであります。

はっきり申し上げますが、聖職者の99%は、キリスト教徒でも何でもない、

ただ単に、神学校で知識を詰め込んだだけの単なる偽善者に過ぎません。

だから、いつまでたっても、そうやってボロを出す羽目になるんだという話であります。

それゆえに、「からし種のほどの信仰」の価値をキリスト自ら説いているのであり、

そういうものは、「山をも動かす」ほど貴重なものであると言っているわけです。

別にキリストを信じていようが、信じいまいが聖職者になれることは、

事実そのものが証明していることであります。

もう、私の後見人であった方は、一年以上前に亡くなっており、

私を取り巻く人々に、どんなに不思議なわざを持つ人がどれだけいようと、

キリスト自身が、「そういうものに惑わされてはいけない」と言っているように、

そんなものは、キリスト教そのものとは縁もゆかりもないものであり、

そういう人々が何と言おうと、宗教的な根拠は全くないです。

ああ、読心術だ、遠隔透視だ、予知能力だ、そういうものにかけては超一流だか、

信仰のかけらもありゃしねえという話であります。

チェーホフの作中の神父が、

「信仰とは神秘の領域を著しく狭めるものであります」と言う場面がありますが、

そういう神秘的なわざには宗教的な根拠は全くないということを説明しているわけです。

ひけらかしたいだけひけらかしゃあいいが、

間違っても「キリストの名において」というような偽証はしないでくれという話であります。

私の当事者とは言え、宗教的な観点からは、どうせろくでもない連中の集まりなわけです。

その辺を、他の方たちにも、はっきりと区別して考えていただきたいところであります。

私を信仰の道に導いた人物は、後にも先にも、

前教皇ベネディクト16世をおいて他には存在しません。

その点に関しては、たとえ教皇であろうと口を挟むことは断じて許しはいたしません。

ああ、確かにジェズイットかもしれないが、

こともあろうに、「アシジのフランシスコ」を教皇名に選ぶような人物は、

私に言わせれば、全く信用に値しないです。

その点に関しては、最初に行った教会がフランシスコ修道会であった過去から、

一貫して、私には疑いの余地のないことであります。

「親に勘当されて、肉体労働で身を立てました」という、何の変哲もない逸話が、

何を持って、聖人であることを証するのかということに関して、

なぜ、彼らは疑問に思わないのかと私は不思議でしょうがないです。

結果、精も根も尽き果てて亡くなりましたという事実が殉教であれば、

世の人々は、誰も彼も聖人と称さなければならないではないかという話であります。

そういうことを称して、結果と目的を履き違えているというわけです。

結果的に亡くなったに過ぎなことが殉教なら、

世の人々は、誰も彼もが殉教者だという話です。

まあ、モノのたとえで殉教者だと言うならわかりますが、

宗教的な意味での殉教者では少なくともないという話です。

重ねて申し上げますが、それがどんな不思議なわざであろうとも、

決して、キリストの名を口にするようなことはやめていただきたい。

それを皆さんが信じることも、キリスト教の信仰では全くないということです。

まあ、一見、確かに善意に満ちた人々ではあるが、

私の経験上、宗教的な観点からは全く信用に値しないです。

聖書を引き合いに出すような資格も彼らには全くないです。