私が小説を読み始めたのは、29歳の時で、

ダイソーの百円文庫がきっかけだと言う話でしたが、

最初に統合失調症の兆候が出たのは28歳の頃のことで、

当時、私は実家に居候して、ポスティングのバイトをしておりましたが、

母に「みそ汁に、いとこのタバコの灰を混ぜた」と苦情を言ったりだとか

夜、2階の部屋でベッドで横になっていると、

父が包丁を持って階段を登ってくる気配がしたので、

裸足で窓から飛び降りて、そのまま、走って逃げて、

大通りだと見つかる可能性があると思い、わざわざ、大通りに沿った

人通りの少ない砂利道の上を、裸足で駆けていき、

3つ目の無人駅で夜を明かした後、

何事もなかったように、家に電話して、迎えに来てもらうと言う事件があり、

もう、その時点で精神科を受診していてもおかしくない状態だったことは明らかなのですが、

ポスティングの会社を退社して、

翌年、主に自動車関係の工場の派遣会社に登録して、

栃木のド田舎のアパートの寮に住んでいた時に、

その百円文庫がきっかけで、小説を読むようになりました。

そういう精神病理を抱えた状態と、小説の読解力というのは、

相矛盾するものではないということが、その事実からよくわかることであります。

その後、30歳の誕生日を迎える一ヶ月前に、統合失調症の診断を受け、

3ヶ月、入院した後、実家で自宅療養しており、

その間は、主にラジオを聴いておりましたが、

1年後には、建築現場の雑工という、まあ、何でもありの雑用係みたいな位置づけなのですが、そういう仕事の派遣会社に登録して、毎日、違う現場をほうぼう回って歩くという、

結構、ハードな仕事をこなすまでに快復しておりました。

その後、派遣会社を転々としているうちに、また、小説を読み始めるようになりました。

当時は、あまり思想的なこだわりはなかったので、いろんなものを読みましたが、

主に、自然主義文学的傾向の強いものを中心に読んでおりました。

新約聖書と出会ったのは、36歳の時のことですが、

特筆に値する点と言うのは、福音書の持つ、その圧倒的なリアリティであります。

まあ、盲人の目を目るようにしたとか、湖の上を歩くだとか、パンを増やすだとか言った、

いろんな脚色があるのは事実なのですが、

特に、キリストの説教の一字一句に関しては、そういうものは全く感じられません。

そういう脚色まで信じるのが信仰だと言う、固い人も、特に聖職者の中にはおられるかも知れませんが、私は、そういうものはキリストの神性のニュアンスに忠実なだけであって、話の内容そのものは、実際には読み飛ばしてしまって構わないものだと思っております。

ただし、そういうものにもある種のリアリティがあるのは事実であり、そういう大胆な脚色にまでリアリティを感じさせる作者の卓越した技術まで否定するつもりは全くありません。

そういうところが自然主義文学と非常に似通った性質の文書なわけであり、イエス・キリストという人物の人となりを、極めて忠実に再現している点において、2千年前の文書でありながら、傑出したドキュメンタリーとしての性質を持っているわけです。

それ自体がドキュメンタリーなのに、ああだ、こうだと余計な注釈だの解説だのを入れないでほしいと言いたいところなのですが、まあ、一応、ミサの構造上、そうなってしまっているものは、今さら変えようがないものだと言ったところであります。

逆に言うと、そういう極端な脚色があるからと言って、その圧倒的なリアリティは決して否定できるものではないということであり、そういうものが理解できない人たちと言うのは、信仰がないと言うよりは、単に読解力の欠如にすぎないと言ったところであります。

福音書という文書それ自体が、キリストの神性をつまびらかにしているものであり、細かい物理的な矛盾を指摘して、「あそこがおかしい」だの「ここがおかしい」だのと言うのは、単に、「文学的センスが足りないだけですよー」と言う話であり、そういう文書を信じるのは、頭がおかしいからだとか言うのは、単なる屁理屈に過ぎないんだと言うのは、私には、そういうものに対する、れっきとした受け皿があるからです。特に自然主義文学的観点から評価する受け皿があり、統合失調症というのは、齋藤先生曰くところの「精神病の王様みたいな病気だ」というような意見には、私自身としても、全く異議はないのですが、「そんなのは文学的センスを否定する根拠には全くならないんですよー」という、そういうものが理解できない、別の意味で頭がおかしい人たちに対する皮肉を言わせていただいたような次第であります。「センスの問題だよ、センスのー」という話であり、そういう人たちと言うのは、「センスが貧しいだけなんだよー」という話なのであります。

ただ、一方では、翻訳のしかたと言う由々しき問題もあるのは事実であり、日本で言えば、一度、新共同訳を読むと、他の翻訳のアラがいろいろと見えて来るものであり、そういう障害というのは、国によってさまざまな翻訳がされていることを考えると、当然、あると思いますが、新共同訳を読んでる日本人が理解できないなんて、「てんで話にならねーや」というのは、「文学的センスが貧しんだよー」と言う理由に他ならないのであります。