YouTube動画で、同じアーティストのライブ動画などを追っていくとよくわかりますが、

特に、ギタリストの場合なんかがそうですが、

だいたい、いつも同じレパートリーの連続であります。

なぜ、ギタリストの場合に、それが顕著なのかと言うのは、

シンガーの場合、同じ曲を演奏する場合、アドリブを効かせるにしても

かなり限界があるためだと思われます。

なので、フェイスブックをやっていた当時は、

米国の代表的女性シンガーのリンダ・ロンシュタットの動画をシェアするにしても、

無限にネタが存在するので、ネタには不自由しなかったです。

その点で最も不利なのがシンガーソングライターの場合で、

JD・サウザーは70年代のウェストコーストの重要人物なのですが、

彼は自分の歌しか歌わないので、

マンネリの極みとも言え、彼の場合、フェイスブック・グループ自体が、

存在しないも同然の状態になっております。

ただ、米国では一定の固定ファン層が存在し、

今でも、地域の小さなライブ・ハウスみたいなところの

土佐まわりを、毎年、しており、そういうファン層というのは

決して、枯渇することがないという、非常に不思議な人物であるのも

一方では事実であります。

だいたい、そこで、どんな曲が演奏されているかは、そう言う人なので

だいたい想像がつくのですが、

通い詰めているファン層としては、それを聴くところに醍醐味があるといったところでしょう。

しかし、そういうものをあえて、YouTubeなどで公開する人は、ほとんど皆無であります。

そういう意味での公共性みたいなものが極めて低いためでしょう。

そういう意味では、ギタリストのフェイスブック・グループなどは、

会員数は多いのですが、内輪ネタで盛り上がっている傾向が極めて強く、

彼らの動画は無限に存在するのですが、

シェアする曲は、誰もが知っている曲ばかりなので、

そういうものをシェアしても、あえて、聴こうとする人はあまりいないと言う点では、

英語のわからない私としては、ほとんど、需要がなかったという印象で、

テレサ・テンなどは、リンダに比べればはるかにネタは少ないのですが、

動画の需要と言う意味では、ギタリストの場合よりもずっと高かったという印象でした。

ただ、まあ、内輪ネタであるという本質自体は、どのグループにも共通する点であり、

そういうグループの中でこそ需要があったものを、

第三者にシェアする意義というのは、実際には、ほとんどないだろうといったところで、

その時代の私の仕事には、それほど公共性はなかったかもわかりません。

アメブロに関して言うと、いわば、インスタグラムの自撮り画像を言葉にしたような世界なので、まあ、一蓮托生と言ってしまえば、それまでなのですが、

私自身は、もう少し、「世のため、人のため」になることを共有しているつもりではおります。

まあ、動画自体は、教会からは「禁書」扱いされている、ジョン・レノン・ネタではありますが、

彼の凄いところと言うのは、極めて私的な感情に過ぎないものを、

万人が共感する普遍的な楽曲へと昇華させている点にあるわけです。

そういうところは、まさに、「神わざ」と言える部分があるのは否定できな事実であり、

なんぼ宗教観が違うとは言え、そういうものまで過小評価しようとしているところが丸見えなのは、私個人としては、何だか、非常に狭量で、情けない話だなと思うところで、

そういうところに、教会関係の人たちの何とも意地らしい「色めがね」目線を痛切に感じるところでございます。

彼らの言う「一致」と言うのは、そういう思想統制的観念で、決して、霊的な「一致」を意味するようなものではないということは、そういう楽曲の普遍性まで、見て見ぬふりをするという態度から明らかに見て取れるところであり、むしろ、ジョン・レノンの、あの「Love & Peace」運動こそ、そういう霊的な「一致」に対する、心からの呼びかけであると私は言いたいです。

もちろん、彼自身には、そういう霊的な自覚というものは、全くなかったわけですが、逆に言うと、単にそれだけの問題であって、そんな思想統制的な「一致」の呼びかけに比べたら、はるかにマシなものであると私は言いたいわけです。

前回の、「わたしは剣をもたらしに来た」というのは、そういう見解の相違の話をしているわけです。見解の相違があるからと言って、何から何まで否定してしまおうという、その根性が問題だと言っているわけです。

そういうことを、ちゃんと指摘している人を、私は過去に、一度として、記事として見たことがないが、紛れもない真実であり、彼らは、「ああ、また同じことを言ってるよ」と思うかもしれないが、何度でも言う価値のあることであります。

それでも、なお、「ああ、そんなものは一蓮托生だ」と言われてしまえば、それまでであり、それは、人の好き好きであり、JD・サウザー的な土佐まわりブログだとでも思っていただければ結構ですが、私はそれで本望です。