ダンテの「神曲」という小説の有名なフレーズですが、

私は一度も読んだことがないです。

ただ煉獄(れんごく)の定義については、

最初に行ったカトリック教会の神父様に説明していただいたので

ちゃんと理解しております。

なので、だいたい、どんなことが書いてあるのかは

想像がつくところでございます。

まあ、集団洗礼の弊害というものを補足するような意味合いがあるものと思います。

そういうことを言うと、また、皮肉と受け取られかねないですが、

でなければ、なんで、わざわざ教会はそんなものを定義づけたのかという理由がわかりません。

神父様によると、「聖人のような人」はまっすぐに天国へ行くが、

「そうでない人」は、煉獄で罪を焼かれて、きれいな体になった後、天国へ行くことが認められるということだそうです。

そして、最悪のケースとしては、重罪人になると、「悪魔とその僕たちの」地獄へと真っ逆さまに落ちていくということになるそうです。

その神父様は、教会併設の幼稚園の園長を兼ねておりましたが、

画用紙みたいなものに、図を書いて説明しておられ、

私は幼稚園生さながら、アホみたいにそれを見ながら聞いていたような形でした。

 

ところで、今朝は、私自身ではないのですが、

自殺志願者が、高いマンションの最上階から投身自殺をして、

真っ逆さまに落ちていくのを目の当たりにする夢でうなされて、

たいてい、見た夢はすぐ忘れる私ですが、

一日、経った今でも鮮明に覚えております。

結果的には、落ちていく過程で、途中の階で、「回心」し(?)、

その階がクッションとなって、命拾いしたような形で、

要は自殺を試みることそのものに意味があったらしく、

着地したあとの彼はすがすがしい笑顔を見せておりました。

「ああ、これで目的は達成した」ということだったようです。

まあ、その自殺を図った人物が何物なのかということについては、

諸説あると思いますが、

その後、彼と私が、それぞれカッターを片手に、

本気なのか冗談なのか、よくわからない格闘を演じるという展開になるという

何だか、よくわからない顛末になったところで、その夢は終わりました。

先週からの一貫したテーマは、「復讐してはならない」というキリストの説教にありますが、

その後に続くのが、「敵をも愛しなさい」という説教で、

その2つの説教は深い関係にあります。

削除してしまいましたが、昨日のブログでは神父様と私の対立の構図をはっきりとさせたような形になりましたが、

「不正」だとか、「嘘」だとか言って、必ずしも私自身ではないにしろ、

他人をそうやって非難する姿勢というのは、

明らかに、そういう精神を真っ向から否定するものであり、

聖職者としては、自殺行為といっても過言ではないでしょう。

もう、明らかに「敵意」が丸出しなわけです。

まあ、ご本人も、当然、そのことには気がついているはずであり、

今後のお役に立てば幸いだと言ったところであります。

同じ過ちを、歴代の神父様が繰り返し演じているのを見るにつけ、

まあ、あえて悪役を買って出たという解釈も成り立たないわけではないといったところです。

昔、キリスト教をあからさまに否定しているゾラという自然主義文学の草分け的な小説家がいて、私も、かつて、かなり彼の作品は読んだので、その事実はよく理解しておりますが、

そのゾラをあからさまに敵視した教皇がいたそうですが、

そういう態度を取ってはならないということを、キリスト自身がはっきり述べているわけです。

そういうのは「自然主義文学の大家」という彼の名声に対する、一種の嫉妬の感情の表れ以外の何物でもなく、そういう対抗意識と言うのは、「愛」からは、当然、かけ離れたものであることは言うまでもないことであります。

ただ、一方で、そういう態度を触発した私のほうにも原因はあるわけですが、

「聖書を読むことはキリストを知ることです」というピエロニモという聖書研究家の言葉を引用しているそばで、誰もが知っているキリストの説教の一番肝心な部分を自ら否定するような態度を取る人はいないだろうという話で、

そのことに気づいたのであれば、それは、彼にとって、取りも直さず命拾いに他ならないわけであります。

そういうことは、ありとあらゆる信者にも共通して言えることであり、キリスト自らが、反キリスト分子であろうと、何であろうと、決して、敵視してはならないとはっきり言っているわけです。

まあ、ちょっと本題からは外れましたが、私が彼らの反発を買っている本音の発露の動機になっているのは、「煉獄山の苦しみ」だという話であり、同情してくれとは言わないが、それが気に食わないからと言って、反発するのは、人の道に外れるとまでは言わないが、少なくともキリスト教の精神とはお世辞にも言えない態度であるというような話でありました。

 

まあ、「煉獄山」というのは、あくまでも仮定の話であり、そんなものが実際に存在するとは私自身、全く思っていないです。

ダンテは、一種の天才かもしれないが、あくまでも、たとえて言うならばという話です。

第一、ここで主題となっている私の罪の概念というのは、決して宗教的な問題ですらないです。

まあ、それこそ、人の道に外れるかも知れないが、それ以上でも以下でもない。

そういう意味では、「煉獄山」のような世俗的概念を引き合いに出すのは、むしろ、こういう場合にこそ、ふさわしい場面だろうといったところであります。