このキリストの説教は、マタイの福音書の「山上の説教」の一部で、

「山上の説教」は、5章から7章にわたって書かれておりますが、

私の持っている、和英対訳の新約聖書ですら、

わずか14ページ程度しかなく、

その中に、ほぼ、クリスチャンとしての信条が全て要約されており、

仏陀の説教が何百巻にもわたるものと言われているのとは、

極めて対照的な点であります。

和英対訳の新約聖書を愛用している理由は、

最初に使っていたペーパーバックのものが縦書きで、

横書きで書かれている、こっちのほうがずっと読みやすいためで、

英訳部分は現代語訳で、極めて安直な意訳をしており、

私が普通、英訳聖書を参照にする場合は、アメリカン・スタンダード・バージョン(ASV)と言う、

百年くらい前に古語で書かれたものを使うので、

特にそれ以上の意味はないです。

サイズ的にも、ペーパーバックのと同じ、文庫サイズくらいなので、

非常に使いやすいです。

教会では普通、旧約聖書と一体になったものを使いますが、

あんなゴテゴテした聖書は、普段づかいには決して向いてないです。

まあ、最初に、ペーパーバックの新約聖書を無料でくれたのは、

カトリック教会の神父の方なので、決して私だけの意見ではないと思います。

まあ、聖職者ともなると、福音書は全部、暗記しているので、引用するまでもないと言うかもしれませんが、私は、一通り、覚えてはいるのですが、全て、うろ覚えなので、

いちいち引用しなくてはならない立場としては、そのほうがずっと使い勝手がいいです。

で、例によって、この説教もうろ覚えなので、実物から転記することにいたします。

 

復讐してはならない(マタイ5-39)

※ちなみに、原典にはこんな小見出しはついていません。

 

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

 

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 

あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

 

だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

 

求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

行間を開けているのは、私の使っている本自体もそうなのですが、一文、一文がつながっているようでいて、独立している性質があるためです。

まあ、余談ですが、非常によくできている本だと言う話でもありました。

対訳聖書の決定版なので、アマゾンとかで売っていると思います。

 

一文、一文に究極のエッセンスが込められているというのが、キリストの説教の特徴的な点であり、キリスト教徒としては、「ざまあみたか、これが本物の宗教というものだ」と言いたくなるところでもあり、何度も言いますが、英国王ジェームズ一世が聖書の翻訳を命じた際に、「一切、注釈を入れてはならない」という条件を付けた理由と言うのは、そういうところあるものと私は解釈しております。

私がカトリック教会で「正式な信者」となる際に、非常にお世話になった、元関口教会の山本量太郎神父は、齢70を超えてらっしゃいますが、福音書を、「今でも毎日、読んでいる」とおっしゃっていました。

決して、そんなに長い文書ではないのですが、まあ、2千年も昔の人物の説教が、一字一句、まごうことなく再現されているというのは、他に類を見ないことであり、一方では、そんな昔の文書にそんな信憑性があるわけがないという人もいるわけですが、そんなのは、その一字一句自体が証明しているところであり、常人の発想をはるかに超越しているものであることは自明の理というものであるわけです。

何で、ミサでは、預言者の言葉には、「神の御言葉」と言うのに、福音書では、「キリストに賛美」などと言ってお茶を濁すのかと言う話でもあり、なぜ、ここぞという時に「神の御言葉」と言わんのかと言う話でもあります。パウロの文書ですら、「神の御言葉」と言う、その格付けの基準て何なんだと言う話であり、そういうところに、私としては、キリストを単なる「いけにえ」としてしかみなさない聖職者の自尊心みたいなものが見え隠れしていると言いたくなるところであるわけです。

こともあろうに、先日のミサでは、「捧げもの」と言い換えたりしておりましたが、また、そんな「火に油を注ぐ」ようなことを言ってるよ、と言う話であり、まず、そういう態度から改めてほしいというのが、私の最大の教会への注文であります。言った神父の方が悪いんじゃなくて、言わせたのは、当然、バチカンの権威においてであり、そんな愚の骨頂を露わにしておきながら、権威もへったくりもあるかという話であります。

この説教では、キリストの磔刑の持つ本質とは何なのかということを、キリスト自ら、明らかにしている意味もあるわけです。キリスト自らが、自分の意思でエルサレムへ向かったのであって、その場で捕獲されることは、当然、覚悟の上であったわけです。そういうキリスト自身の意思にこそ、神聖な意味があるのであって、私たちが「捧げもの」とすることに神聖な意味があるのでは決してないということです。そういうことを肝に銘じ頂きたい。

そういうキリストの姿勢には、一種の普遍性があるということが、この説教の持つ意味合いであります。断じて申し上げますが、人を「捧げもの」扱いするような人間には全く関係のない話であり、自分の理解してもいない問題には首を突っ込まないでいただきたいということです。

なので、私自身への教訓ではありますが、自分の問題だと言うような勘違いはしていただなくて結構だという話です。

もちろん、そういうところには教会への復帰の意味合いもありますが、決して、そんな、一般大衆的な普遍性のある問題ではなく、

「山上の説教」とは、キリスト教徒とはどういうものであるかということを定義づけている文書に過ぎないのであり、

逆に言うと、その定義に該当しない人たちには関係のない話だと言うことです。