コミュニケーション能力は疑わしいですが、発信力だけはいっちょ前のワタクシでございます<(‗ ‗)>と、簡単に自己紹介したところで、本来の実態というか理由はなくなったはずなのですが、ブログの更新だけは、形骸化してなぜか生き残っているような形でございます。「反復は学習の母なり」でございます。(下ネタではございません。)

キリスト教は敗者の美学だと言いながら、あいかわらず、麻雀を打っているのは、賭け麻雀とは違う、健康麻雀独特の価値観のなせるわざとも言えるでしょう。

そんな今日この頃ですが、本題は、あらためて、中島みゆきの「時代」という曲の紹介の第2弾でございます。

この方は、非常に著作権にうるさい方であるためでしょう、YouTubeでは本人のバージョンはアップロードされていないので、先日、薬師丸ひろ子のカバー・バージョンを紹介しましたが、今回もその延長線上の話であります。

私自身、あらためて聴いたのは、小学生時代以来で、スタジオ・バージョンを聴いたのは、私自身、初めてであり、そのプロデュースのテクニックに、思わず圧倒されたような次第で、あらためて紹介する価値は十分、あると思います。

プロデュース上の主題としては、おそらく、薬師丸ひろ子の「菩薩キャラ」を前面にフィーチャーすることと思われ、そういう意味では、極めて的を得た、選曲とアレンジと言ったところであります。

こういう話になったのも、元をたどれば、私が出勤途中に、とある女性の後ろ姿に一目ぼれしてしまったことが、そもそも、ことの始まりであり、それ以来、恋愛依存症に陥ってしまったような形で、後ろ姿だけですめば、こんなことにならなかったものを、神秘的なルートで相手の方の知るところになったことで、このような状態から抜け出せなくなって、もう2年近くになったような形で、正直言って、私自身の罪は、せいぜい高く見積もっても20%くらいのものだろうと言ったところであります。

まあ、当時は、前教皇ベネディクト16世も名誉教皇として存命の頃であったので、教会側の善意と言えば、善意だったのでしょうが、彼の没後、1年後になって、結果的には、サジを投げたような形になるわけで、早い話が、「ずいぶんと余計なことをしてくれたわい」という話なわけであります。

私は、それは女性たちの責任だとは思いません。ひとえに、教会のおせっかいのなせるわざだと言ったところです。

といった事実関係を一通り説明した上で、本題は、薬師丸ひろ子の「菩薩キャラ」の話ですが、まあ、その女性のうしろ姿に感じたのも、今、思えば、それと似たようなものだという話であり、そういうものの類型というものは、世の中にゴマンと存在しているので、恋愛依存症に陥った今でも、かろうじで生き延びているような形であるわけです。

で、そもそも「菩薩キャラ」とは何なのかという話なのですが、週刊誌の「SPA!」の造語で、私が20歳くらいの頃に使われた表現で、今ではもう、死語となっているので、若い方はご存知ないでしょう。その背景として、まず、その真逆の価値観である、「鬼畜系」というジャンルが当時のサブカルチャーでもてはやされた時期があるのですが、代表的な例としては、以前にも話したことがあると思うのですが、「完全自殺マニュアル」という本がバカ売れしました。今では出版禁止になっていると思いますが、そういう時期が実際、あったわけです。文字通り、自殺の方法を事細かに説明したものらしいのですが、私はちゃんと読んだことがないです。ただ、「鬼畜系」の第一人者である、漫画家の根本敬(たかし)先生の本などには、多少、私も関心があり、読んだことがあります。まあ、かつては「ドエス」と言われた私が、「鬼畜系」を語るというのも、何だかやましいところがあるので、あんまり深く突っ込むのもどうかと思いますが、当時は、そういう自覚は全くなく、純粋に他人事として見ておりました。まあ、一種の世紀末的現象とでもいったらよろしいでしょうか。そういうことが昂じて、ゆくゆくは普通の女性への「性愛」が限界に達した結果、私の「性愛」は徐々に変態化していくことになるわけです。なので、普通の女性に恋愛感情を感じることができるというのは、こう見えても、いろんな意味で「大革命」が私に起きたことの証なのですが、まあ、これ以上、言っても言い訳にしかならないと思われますので、この辺にしておきます。

で、その「鬼畜系」がある程度、出尽くした頃に、その反動で「癒し系」というのが生まれるわけですが、こっちのほうは、わりと今でも使われている言葉だと思います。それを代表する女性たちを「菩薩キャラ」と、「SPA!」が言っていたという、そういう話です。そういうものが、宗教性を帯びている場合というのは非常に特殊な例であり、特にキリスト教における典型が、私のゴッドマザーであるとか、米国を代表する女性シンガーのリンダ・ロンシュタットであるとか、台湾出身で80年代に日本でも圧倒的な人気を誇ったテレサ・テンのような、まあ、たまたま、いずれも歌の上手い人たちなのですが、逆に言うと、そういう特技でもない限り、なかなか、その人の持つ宗教的な特性には気づかないものです。これも、ある意味、言い訳に聞こえるかもしれないですし、私も逆の立場では、そういうものを抜きにして、この人の宗教的な特性はこれこれだというようなことはなかなか説明しずらいもので、例えば、ギタリストのようなケースだと、ロックに関心のない人にはなかなか伝わらなかったりするものです。それはともかくとして、そういう特殊な例は、そんじゃそこらにあるものではないので、例えば、私がたまたまカラオケスナックに行って、出会ったフィリピン人ホステスが、そういう意味での典型であったというようなケースと言うのは、ある意味、宝くじに当たるくらいの偶然性のなせるわざだと言ったところで、なんぼ、フィリピンがキリスト教国だからと言って説明できるような現象ではないのですが、しかし、一方では、もしフィリピンがキリスト教国でなかったなら、決して実現しなことだろう、というのも事実と言えば事実であります。ただ、まあ、今さら、そういう人たちを引き合いに出すと、そうでない女性たちの反感を買うことになるので、この辺にしておくとして、日本における「菩薩キャラ」事情でありますが、「SPA!」は若かりし頃の飯島直子を筆頭に挙げておりました。まあ、確かに、あんまりキツイことを言うところはなかなか想像しにくいところがあるのは事実です。昔、そのキャラを買われて、缶コーヒーのCMで、思う存分、発揮していたのを思い出します。なので、私は、必ずしも宗教的な普遍性を帯びていることが、女性としての絶対条件だなどと言うつもりは全くないです。そういう女性たちに癒されつつ、私を含めた世の男性どもが生きていく上でのモチベーションになっている事実と言うのは、私自身も、この2年間の経験を通して、非常に貴重な事実であるということを実感した次第であります。

というわけで、書き出しとは正反対の意見にまとまったようなところで、あらためて、その「癒し系」における「菩薩キャラ」を遺憾なく発揮している薬師丸ひろ子による、中島みゆきの「時代」のカバーバージョンをあらためて再評価しようという試みでありました。