結論から言うと、私にとっての「カトリック教会」=「前教皇ベネディクト16世」であり、

そんな別れた女房みたいた組織から、くどくどと因縁をつけられる筋合いはないといったところであり、私のほうからも因縁をつけるつもりはさらさらないと言ったところであります。

そういう意味で、一昨年末の彼の死去は象徴的な出来事でありました。

聖書と聖伝のいかに、あい矛盾するものであるかということについては、

もう、さんざん言いつくしたことでもあり、

もはや、何の説明せずとも自明の理であると言ったところでしょう。

そういう意味では、彼は生ける福音書と言ったところであり、

彼の引退劇は、保守的な聖伝との対立から、起こるべくした起こった事件だと言ってよいと思います。

奇しくも、私の信仰告白となった、フランシスコ修道会の神父氏の、「反省しなさい!」事件は、

まあ、私が日本におけるドメスティックな問題において、過去に究極の過ちを犯したことに端を発するわけですが、

宗教的な観点からは、全く普遍性のない問題であり、そういう対比が昂じて信仰告白となったという、皮肉な結果であり、

そういうのは、フランシスコ修道会や、引いては、その創始者であるアシジのフランシスコの特性をよく表している事件なのですが、

そういう事件がフランシスコ修道会の教区で、ベネディクト16世の治世に実際に起こっていることは、バチカンでは、当然、有名な話であるにもかかわらず、こともあろうに、自分の教皇名を「フランシスコ」と名づけること自体が、かの事件に対する、一種の教会全体を代表した現教皇の私に対する復讐劇となったとも言えるわけです。

まあ、彼としては、宗教的な普遍性よりも、日本のそういった由々しき問題というもへの政治的アプローチというものを最大のテーマとかかげたような形であり、

そう考えると、彼が、「フランシスコ」の名を名乗っている理由と言うものも、よく理解できるわけです。

まあカトリック教会の持っている政治的影響力を考えれば、そういうものは十分、正義の鉄拳として機能するのは確かなことでしょう。

過ちを犯した私自身としても、そういうアプローチというものが、十分、効果を発揮するものであり、少なくとも、日本国内においては、正義の象徴と言っても過言ではないでしょうし、

そういう意味では、彼の復讐劇は、ちゃーんと成立したような形になるわけです。

それは、おそらく、宗教的な意味においては、前教皇の偉大さというものの理解者でもあり、

自分の限界と言うものを十分、知っておられるがゆえに、

自分の最大の武器である、組織としての政治力というものを遺憾なく発揮させた結果であると言え、それを「フランシスコ」の名において達成させることには、極めて象徴的な意味合いがあったと言えるわけです。

私の救い主である前教皇が存命の頃には、まだ、彼も手加減していたわけですが、

前教皇の逝去した今となっては、もはや、何の遠慮会釈もいらなくなったということも、背景には当然、あるでしょう。

救い主にとっては、自分の救った人間は、何にもましてかわいいことは、

福音書を読んでもわかることであり、その彼が存命中に、彼の見ている前で、

彼の救った人間に、そんな鉄拳制裁を行うことは、現教皇としてもためらう部分が当然、あったはずです。

ちなみに、「鉄拳制裁」というのは、今は亡きプロレスラーのカリスマ、アントニオ猪木氏の造語で、まあ、文字通り、拳でパンチの嵐を食らわせることで、プロレスでは反則行為に当たるのですが、カリスマの特権において、ここぞという場面で彼が披露した必殺技でありました。

まあ、カリスマの特権と言う意味では、似たような意味合いがあり、引用してみたような形であります。

まあ、「正義の鉄拳」なので、誰も文句を言わないというわけです。

プロレスには、「ヒール」と呼ばれる悪役が必ず存在するものであり、新日本プロレスリングの創始者である猪木氏は、当然、勧善懲悪における、「善」の立場いたので、彼の向ける「鉄拳制裁」は、自ずと「ヒール」に向けられるような形になり、「正義の鉄拳」として成立するのは自明の理というわけです。

そういう勧善懲悪の思想というのは、聖伝の極みともいうべき、カトリック教会の伝統的思想であり、宗教的な意味合いからは自らの限界を知る現教皇が、そういう役割を買って出るという心理は極めて合理的なものだと言えるでしょう。

まあ、逆に言うと、キリスト教の本質というものは、キリストの磔刑が象徴する通り、敗者の美学であり、本来は真逆の思想なのですが、一般大衆的には、「そんなこたあ、知ったこっちゃねえや」といったところで、「ヒール」の立場から、どんなに正論をぶち上げたところで、聞く人にとっては、「馬の耳に念仏」といったところでしょう。

「反省しなさい!」という例のセリフは、まあ、学校の先生がよく言うセリフですが、信者の中には学校の先生をしていた人も実際におり、彼が自ら、カトリック教会の聖伝の立場を代表して、私に引導を渡したような形で、結末を迎えたような形であります。

もちろん、日本国内では由々しき問題であるのは間違いないことなので、日本人の私が、逆恨みをして、「そんなこたあ知ったこっちゃねえや」とは、当然、言えるわけがないので、宗教そのものとは無縁の問題とは言え、カトリック教会という場所柄は、必ずしも場違いだとは言えないセリフであるのは間違いないです。

教皇「フランシスコ」の命名の陰には、そんな隠された、日本人だけにしか理解できない理由が実は存在しており、その原因となったのが、一改宗者の起こした過去の不祥事であるという、こんな一ブロガーの告発は、不特定多数の読者にとっては、おそらく「寝耳に水」だとは思いますが、まあ、実はバチカンでは非常に有名な話であり、当事者の私にとっては疑いの余地のない真相であるわけです。

まあ、それだけ、そういう改宗劇というものが、いかに宗教上、特殊な現象であるかということと表裏一体の事実でもあるわけであります。でなければ、そんな全世界的に有名な教皇の命名の動機付けとなるような影響力を持つはずがないからです。

そういう意味で重い浮かぶのは、あの教会おかかえの天才画家カラヴァッジョが、殺人事件を起こして、教会から死刑判決を受けたことと、その結果、逃亡生活を余儀なくされて、夭折した事実であります。

まあ、私の場合は、改宗前と言うこともあり、「反省しなさい!」の一言で済むような一面もあるのですが、彼の場合には、その宗教的な霊性自体を否定されかねない事件でもあり、私よりもはるかに不幸な実例だと言ってよいでしょう。

作品を見れば、その才能の霊性は一目瞭然なのですが、「何でそんなことになったんだろう」というのは、永遠の謎と言ったところです。

ただ、一方では、彼の場合、その作品が、彼の宗教的な霊性を証明してくれるわけですが、私のような凡人には、それを証明する手段が全くないという点で、彼よりもはるかに不利な立場にいるとも言えます。

まあ、あえて言えば、そういう霊性への協調性が、私自身の霊性を証明しているとも言えるのですが、元となる作品の霊性が否定されてしまっては元も子もない形になるので、まあ、そうなった日には、「手も足も出ねえや」と言った話でもあったりします。

その最たるものが、前教皇ベネディクト16世に対する、一般大衆の過小評価であるというような話であります。

結果、彼が逝去した今となっては、一応、洗礼台帳からは抹消されはしないだろうが、教会と言うものが、本来は「霊的な意味において」のみ、その存在意義があるという、私の立場からしてみると、全く存在意義を失ったような形になるわけでした。

そういう観点からは、私も酷く過小評価されたもので、教皇フランシスコの復讐劇の達成によって、勇気づけられた人々で、世間は大賑わいでありますが、まあ、あえて捨てゼリフを残せば、「そんなもんは、長いもんに巻かれてなんぼの世俗根性じゃ」といったところです。

では、教会の皆さま、ごきげんよう。

さようなら。