「クロイツェル・ソナタ」は、トルストイの短編で、「犬を連れた奥さん」はチェーホフの短編。

どちらもロシアの文豪ですが、

トルストイがどちらかと言うと、長編の大作でデビュー作でもある「アンナ・カレーニナ」や次作の同じく大作である「戦争と平和」が代表作というのが一般的な評価で、

個人的にも、後年の作品はほとんと見どころがないのは、「クロイツェル・ソナタ」も例外ではないが、

チェーホフはれっきとした短編の名手で、「犬を連れた奥さん」は、代表的な作品の一つであります。

これらの作品を挙げた理由は、両者の宗教観の違いを明確に表している点で、

私は、これらの作品を聖職者の視点から見た場合、どう評価するかということに、非常に関心があります。

結論から言うと、「クロイツェル・ソナタ」における主人公の貞操観念は極端すぎると言うだろうが、「犬を連れた奥さん」は不倫は不倫だが、どう評価したものやらわからないと言うだろうといったところであります。

「主体性が真理である」と言ったのは、教会嫌いで有名な哲学者で神学者のキェルケゴールですが、神学校時代に学んだことで理論武装しているに過ぎない聖職者の主体性なんぞ、しょせん、そんなもんだといったところで、実際、そういう微妙な問題のジャッジメントとなると、どうせ、手も足も出ないくせに、何だかんだと、人の問題にケチをつけたがる人たちだと言うのは、私自身は、これらの作品に対して明確な回答が宗教的な面からはっきりと出せるからであります。

「クロイツェル・ソナタ」は、妻帯者の男が、若い独身女性の太ももか何かに悩殺された結果、罪の意識にさいなまれて、猟銃自殺するという、文学的な面からはまるで評価に値しないが、宗教的なメッセージ色の極めて濃い作品であります。

確かに、マタイの福音書の「山上の説教」においては、「女性をみだらな思いで見る者は、姦通の罪を犯したことになる」とキリストは述べており、それをそのまま小説にしたような作品であり、「それはあまりにも極端だ」と日本の聖職者たち及び神学者たちは考えたらしく、現在、最も広く用いられている「新共同訳聖書」においては、「女性を」の部分を「他人の妻を」に置き替えると言う大胆なというか、意訳も甚だしいというか、まあ、ほとんど誤訳と言っても差し支えない翻訳をほどこしてあります。

なので、「クロイツェル・ソナタ」におけるトルストイの宗教観は、そういう観点からは、あながち極端な宗教観だとも言い切れない面もあり、この作品を書いた当時のトルストイは、不倫が主題である名作中の名作「アンナ・カレーニナ」を自分自身で完全否定していたそうであります。

一方で、一見、単なるダブル不倫から始まり、だんだんと真に迫る「純愛」へと変化していく過程を綴ったのが、チェーホフの「犬を連れた奥さん」という作品ですが、そういうのは「純愛」というものを対照的なシチュエーションから描き出すことで、より効果的な文学的演出を発揮することに成功した名作中の名作であり、宗教的な側面からの問題提起は一切、存在しないことが、チェーホフらしいところであり、自分の宗教観に自信のある人は、あえて、わざわざ不倫を正当化するための言い訳など、いちいちしなくても、そういう作品を超一流の作品に仕立て上げるものであるという、チェーホフの面目躍如的作品であり、そういう意味では、「クロイツェル・ソナタ」的アプローチと言うのは、むしろ自分の宗教観に対する自信のなさの表れであるといったところであります。まあ、確かに姦通の罪には値するかもわからないが、そんなことをいちいち世に問うことにどれだけの価値があるのかという話であり、そういうトルストイの姿勢は、晩年の彼をして、当時、交際のあった若きチェーホフのこの作品に対して、「まるで動物だ」という酷評を与えたもうたという話らしいです。

まあ、不倫は不倫なので、聖職者の立場からは、「これは『ゆるしの秘跡』を受けるべきです」などと言うかもわからないが、「では、これを『純愛』とはみなさないわけですね」ともし問われたならば、「えーと、それはー(もじもじ)」などと言葉を詰まらせるに違いないといったところであります。実際には、そういう文学的な敗北感から、トルストイをして、かくなる酷評せしめたにすぎないであろうといったのが私の見方であります。文学的才能は、ごく初期の段階で枯渇してしまった、一宗教家から見た評価であり、そりゃ、そういう立場から見たら、隙だらけの作品には違いないだろうが、一方では、そんなのは単なる作品の構造上の問題であって、「純愛」を描き出すためにあえてそうしていることであるというのは自明の理というものであるわけです。まったく持って、盲目的な評価だと言わざる得ません。何に対して盲目的かと言えば、そういう自分自身の、「負けた(汗)」という文学的観点からの敗北感に対して盲目的だという話です。そもそも、「犬を連れた奥さん」は、そんな風に宗教的観点から評価するべき作品ではなく、そりゃ、一種の「失楽園」的メロドラマとシチュエーション自体は同じですが、実際にそこで描かれているものは、全く真逆の価値観であるということに、気づいてるのか、気づいていないのか、わかりませんが、そういうことにはあえて何の評価も与えていないということが盲目的だという話なのであります。

「白黒はっきりせい!」と、もし目上の聖職者に言われたならば、格下の聖職者の人たちは、「そ、そ、それは『クロイツェル・ソナタ』に軍配が上がりますです!(汗)」と言うかもわからないし、実際、教会の上層部も、「福音書に書かれている以上は・・・(ブツブツ)」などと考えるかもわからないですが、実際には真逆のことを描いている、これらの作品を同じ観点から評価すること自体が、本来は無意味なことであり、したがって、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」的視点からの、「犬を連れた奥さん」への評価は全く意味をなさないという、一種のそういう、「宗教家的きれいごとのバカバカしさ」というものがここで露呈されたような形であるわけです。