ローリングストーンズのオーディションを冷やしに行ったジェフ・ベックのことを

ライナーノーツの中で、とある音楽評論家がこう表現していた。

血液型がB型であることでも知られているジェフでしたが、

(ちょうど1年前の1月10日に他界されている)

一般的に言って、こういう独特の宗教観を持っている人たちは、

単んなる自己中と誤解される節があり、

一端、理解されると、そういう誤解は解けるのですが、

理解者とそうでない人の温度差が激しいことが、ある意味で特徴的な面であり、

単に血液型だけの問題ではないような気もいたします。

あるいは、統合失調症の人も、一般的に言って自己中と思われがちですが、

そういうことだけでは説明できない面を、

普通の人たちは、「宇宙人」などと定義することで、

自分なりに決着をつけるパターンなども、私自身、何度も経験していることです。

そういう例と比較すると、「気まぐれベック」などという表現は、

どちらかと言うと、まだ好意的な、理解者側の表現のしかただと言ってよいでしょう。

何となく、親しみを感じさせるものであり、

「宇宙人」などという表現はそれに比べると、

絶対的な関係性の断絶を目の当たりにしたような形になります。

そういうものの典型的なものが、福音書を通して延べ伝えられているイエス・キリストの姿そのものであり、そういうものの類型を人々はそのように表現するわけですが、

そういった表現には、人々の生理的な拒絶反応みたいなものを感じさせるものがあり、

理解されるとされないとでは、天と地ほどの差があると言ってよいと思います。

世には、無限にそういう類型が存在するものであるわけですが、

そういう視点からジェフ・ベックと言う人を評価する人は、理解者の中でもほとんどいないのが現状で、例えば、ジェフ・ベックのフェイスブックのファングループの人たちなどは

明らかに彼だけが特別な存在であるかのような完全な思い違いをしているものです。

そういう傾向と言うのは、特に英国人のグループに顕著であり、

私は、そういう類型の一つである、リンダ・ロンシュタットのファン・グループにも

在籍していたのですが、彼女のグループを含めた米国人のグループは、比較にならないほど私に対して好意的であり、特に、グループの管理者の人たちなどは、

完璧な私の理解者でありました。

ただ、グループを構成するメンバーの意見は真っ二つに分かれたのは事実であり、

そういう点では、英国人も米国人も、根本的には同じでした。

しかしながら、キリスト教的な観点からは、そういう意味で言うと、英国よりも、米国のほうが、

そういう類型を受け入れる土壌みたいなものができているなあといった印象でした。

英国もキリスト教国には違いないのですが、あの聖公会の信者たちというのは、

プロテスタントの信者たちよりも、そういう意味では、何となく狭量なのかなあといった印象であり、そう考えると、聖公会よりも一段も二段も上の最右翼であるカトリック教会に至っては、

何をかいわんやといったところであり、

前教皇ベネディクト16世のような人物も、そういう意味での類型でありながら、一般信者からは受け入れられなかったのは、ある意味で当然だと言ったところであります。

一般信者の人たちに、そういう素質を見抜く、一種の慧眼みたいなものが存在しないがゆえであると言えます。

私のゴッドマザーはフィリピン人であり、フィリピンにおける、そういう類型の一つなのですが、

フィリピンと言う国は、元々、スペインの植民地であり、そういう歴史的背景からキリスト教国になった国なので、当然、カトリック教会の信者たちで構成されている国なのですが、彼女の教会嫌いはかなり徹底したものでして、他の一般信者というものを、まるで相手にしていないことは歴然としており、最後に会ったときは、私まで信者の座から失墜してしまう始末で、そういうのは、当時、私がパニック障害を患っていたことも深く関係しているので、今は、どう思っているかよくわかりませんが、まあ、そう思われてもしかたないといったところでした。彼女のいとこは、最初に出会ったカラオケスナックのチーママをしていた、彼女より一回り、二回り年上の女性だったのですが、彼女の幼少時代のあだ名は、「ガガイ」だとかつて、私に耳打ちしたことがありました。まあ、何を考えているのかわからない、ちょっと頭のネジのずれた子みたいな意味合いなのですが、そういうのも、周りの無理解の表れの一つだったりするわけです。たぶん、その女性は今でも、そう思っているはずですが、そういう意味では、その女性よりもよっぽど私のほうが、よき理解者であると言えるわけです。今回のブログの趣旨を最も的確に表しているエピソードであります。本国をたずねた時、彼女のお兄さまも、お兄さまの妻である、彼女の義理のお姉さまも、ガチで電話で、「ハイ、ガガイ」と未だに呼んでいたのを今でも覚えております。まあ、そこには、フィリピン行きのチケット代として、私の障害年金の一時金であった400万円あまりを私に払わせたという、ちょっと常識外の事実も背景にあって、わざと私の前で、そういう電話の受け答えをしたようなところもあったかもわかりませんが、イエス・キリストが地元のナザレでは誰も相手にしなかったというエピソードを何となく連想させる話でもあったりします。

まあ、そんなわけで、そういう無理解というものは、常についてまわるものだということを、実例を交えつつ、今後も覚悟していかなければいけないなあ、などと私自身も思うところだという話でありました。