「はーるばる来たぜ、鮭茶漬けー」と言うわけで、
松戸市は葛飾区と隣接しているとは言え、
れっきとした、千葉県民の私ですが、
常磐線各駅停車~東京メトロ千代田線~小田急線は、直通運転をしており、
松戸市内から、世田谷区の下北沢まで、都心を横断して、
乗り換えなしで行くことができ、
今日は、東の下町である北千住を横切りりつつ、
はるばる西の下町の下北沢まで行ってまいりました。
健康麻雀は、今、若い人たちの間でも、ちょっとしたブームなのですが、
意外と、健康麻雀店を探すのは簡単ではなく、
地元と同じチェーン店を放浪して歩いているような形で、
「どうしたら見つかるのだろうか・・・」と言ったところです。
なかなか、実際に営業するとなると難しい面もあるのでしょう。
なので、中にはお色気麻雀などの形態を取っている店もあるのですが、
まあ、そんなのは立場上、問題外であり、
真面目に営業している同じチェーン店を放浪しているような形です。
で、まあ、ある程度、面目躍如の麻雀を打って、
無事、帰路についたわけですが、
帰りの電車が急停車しました。
理由は、だいぶ手前の北千住駅で人身事故があったためでした。
まあ、人身事故といっても、いろいろなケースが想定できますが、
年の瀬が迫った、この時期の人身事故となると
だいたい原因は自ずと狭まってくるといったところで、
いわゆる「自殺願望」が頭をもたげてくる時期であります。
私自身、ある意味、日々、背水の陣を敷いているようなところがあるので、
決して、他人ごとではないといった話でもあります。
実際、「The Messiah Will Come Again」で知られる、名ギタリストのロイ・ブキャナンのような、
筋金入りのクリスチャンであっても自殺するようなケースというのが実際にあり、
「信仰は絶対的な希望だ」と、教会の、特に聖職者の人たちは声高に言うものですが、
まあ、ブキャナンのような例は、彼らにしてみれば一介のギタリストに過ぎないので、
全く、論外だと言うかも知れませんが、
私から見ると、あれは、決して、そんな常人ではないです。
信仰の面からは、一部の隙もない人物の自殺となると、これはもはや、
「救いようがない」パターンであり、
「もうちょっと早く改宗していれば、そんなことにはならなかったのに・・・」というような理屈も全く成立しないわけです。
しかし、彼のようなケースと言うのは、ギタリストのキャリアとしてはすでに申し分のないものがあり、40代半ばではありますが、「もう、やることはやったぜ」というような、ちょっと特殊な死生観があったために、もはや生に対する執着自体がすでになくなっていたことの表れのような気もいたします。決して、志半ばの挫折の結果とか、そういうものではないと言えます。なので、世によくある数々の自殺と同列に扱うのもちょっと違うような気もするわけです。
そういう意味では、「もうちょっと早く改宗していれば・・・」という論理は、一般的な自殺の動機に対しては、ある程度、真理であるといってもよいと私は思います。
そう言いつつも、私自身、クビの皮一枚で、生き延びているようなところがあるので、「信仰は絶対的な希望だ」と言い切れるものなのか、どうなのか微妙なところでもありますが、一般的な自殺が非常に悲壮感に満ちている一方で、私が死んでも、おそらくギャグにしかならないだろうと言うのは、他のあらゆる、そういう神秘家と呼ばれるような人たちの死が、決して悲壮感に満ちていないことが、ブキャナンのような例も含めて、証明している事実なのであります。
そういうことは、去年の暮れに亡くなった、前教皇ベネディクト16世ことヨゼフ・ラツィンガー氏の死や、その直後の今年の1月10日に亡くなった、ギタリストのジェフ・ベック氏の死についても言えることで、「ああ、こういう人たちも死ぬんだな」といった、一種、独特の感慨を抱くものです。普段、言っていることと矛盾するかも知れませんが、何というか、「天使たちに祝福されて昇天する姿が、目に浮かぶようだ」という感覚を抱くものです。私の「永遠の命」に対する見解と言うのは、実際に来生があるわけではないにせよ、そういう彼らの死に対して抱く私たちのそういう感覚そのものが、取りも直さず、「永遠の命」と言うものを言い表しているという点にあり、そういう彼らの死は、いわゆる「犬死」では決してない点にあるわけです。それは、取りも直さず、イエス・キリストの死そのものが証明している事実でもあり、それがイエス・キリストの復活の真相というものであるわけで、実際に、生きた姿で、マグダラのマリアに「おはよう」と呼びかけたとか言うようなことでは決してないという意味において、福音書そのものから出発している、そういう伝統的な思想とは、私は決定的に立場を異にしているわけであります。したがって、イエスの救済、引いては私たち教会の救済というものは、あくまでも「生前にあってなんぼのもんである」というのが、キリスト教の本来の思想というものであり、そういうものが、私たちの「永遠の命」を保証するものであるという立場を一貫して私は取っているわけであります。
それでは、ラツィンガー氏やジェフ・ベック氏のような偉人ではない、ごく平凡な人々の死は単なる「犬死」なのか、ということが当然、問題になるわけですが、そういう人々の残した足跡というものを胸に抱いて生きていく姿勢というのは、イエス・キリスト亡き後のマリアやヨゼフ、そして、その弟子たちに象徴されるものであり、まあ、彼らには彼らの残された役割というものがあるわけで、そういうものを全うすることは、決して「犬死」ではないと言って、当然、よいと思います。例えば、ラツィンガー氏の書籍を電子書籍化して普及するとかはアマゾンの役割だろうし、まだまだ、いくらでも存在すると思われるジェフ・ベック氏の隠れた名演を発掘してリリースするのはレコード会社の当然の役割だろうといったところであります。そういう地味ではあるが重要な役割というものは、いくらでもあるわけです。もちろん、それは、その人たちの価値観次第なので決して強制できるものではありませんが、個人的には決して無駄なことではないと私は思います。理想としては、生きているうちに、いかに有機的な関係が築けるかという点のほうがはるかに重要であり、そういう神秘家の人々と言えども、決して、一人で偉業を成し遂げたわけではないということにより、重点を置くべきだろうとは思います。そういうことで、今、差し当たって、思い浮かぶのは、もう御年60を過ぎているギタリストのパット・トラヴァースをサポートしている2人の若いリズム・セクションの人たちで、ここ数年ですっかり定着している感があり、そういう立場に徹することと言うのは、相当、覚悟のいることとは思いますが、決して無駄なことでないのは言うまでもないことなわけであります。
そういう点において、現時点の私としてはクビの皮一枚で生き延びているような状況であり、すんでのところで、「年の瀬の人身事故」の当事者となるところだったという話でありました。
(終わり)